goito-mineral2004-08-20

安四面銅鉱  埼玉県秩父郡大滝村金山秩父鉱山上二番坑
 中央の鉄黒色、正四面体の結晶 結晶径約2mm 



いろいろ自省しております。



現在、というかここ一年半ほど初の単著の執筆にかかっていたのですが、これがマンガ批評の本なんですね。趣旨としては、従来からのマンガを語る枠組みでは、現状に対応できなくなってきている。それは「マンガはつまらなくなった」言説に如実に現れている。そこで新たな枠組みを考えましょう、というものです。

内容については、この「はてな」を一部、アイディアメモに使っているので、結構、小出しにしているのですが、その基底には「人々の多様な『読み』をできるだけ肯定しうる、抑圧の少ない枠組みはないもんか」というのがありました。
まー現実には、抑圧のない枠組みはあり得ないわけで(仮に原理的には「抑圧のない」枠組みが提示できたとしても、勝手に「抑圧される」ひとは出てきます。それが優れていれば解決するわけではなく、逆にそんな優れた枠組みを提示されると、他の枠組みが失われる、というのが世の習いでしょう)、できるだけ、という努力点でしかないのですが。

一方、一般に批評でも研究でも、人文系のそれを「書く」ということは、自己の考えや依拠している枠組み、あるいはポジショニングなどを相対化し、言語化するという作業なわけで、今回の出来事は、なんというか、その最後の仕上げに出てきたという感じです。マンガ評論の神が、このところいい気になってるオレに試練を与えたもうたのかもしれません。


ちょっとヘコんだのはですね。
原稿では「読みの多様性を肯定しましょう、微分的に見ていきましょう」とか書いてるクセに、ここで実に粗雑な態度を露呈した、さらにいえば、ゴリゴリの近代的啓蒙主義をあらわした、ということに気が付いたからなのですね。
こりゃーまずいわ、オレ、と思ったわけです。


たしかに「批評」というものは、状況への介入を伴います。
そこが「研究」と違うところなんですが、今回、まずかったのは「表現されたもの」ではなしに、不用意に「主体」に踏みこんでしまったということなんですね。
たしかに最初は「お節介」ではじまってるんですが、途中から妙に精神分析的な態度となる。ここがまずかったと思います。つまり、そういうことは、それこそ目の前に相手がいて、互いの信頼関係(まあ転移関係でもよいです)が生じている場合に限るべきだと、渦中のマンガに即していえば、キャッチャーの阿部君のように、相手の手を握れる場所にいることが(つまり、相手からもこちらの「主体」が身体的に認識される場所にいることが)必需なのだな、と思い至りました。


友人の某研究者氏からは、
「伊藤さんは頼まれもしないのに離島に行っちゃう医者みたいなもんだよ。
そこで『私は人を診ない。病気のみを見る』という態度でいればトラブルは起きないのに、やれ栄養を取れだの風呂に入れだのいったり、衛生的ではないからといって、ヨソの家の井戸を直したりして、でも後になって元のままのほうが実は合理的だったということに気づくような」
といわれました。

相変わらず、ざっくりと刺さることをいうおひとですw。
もっとも栄養を取るのも、風呂に入るのも、井戸を衛生的にするのも、すべて「いいこと」だし、必要なことなんですけどね。そういう含意でいっています。


ただ、完全に介入のない「研究」というのは、それもやはりあり得ません。観察することによって環境は変化するわけだし、またその結果が「学」として発表される、言語化されることによるフィードバックは常に生じてしまうからです。
id:urouro360さんはそういうつもりで言ったのではないと言われるかもしれませんが、それこそ社会学vs民俗学の論争というよりも、そんな、介入をありえないとするような「学」はダメだろうという自省のもとに、現在の学問はあると認識しています。
また、文化相対主義に徹するのが正しいというわけでもない。因襲ゆえにそこでひとが死んでいくのに、それを文化相対主義の名のもとに、ただ見ているのが正しいのか? という話です。

でまあ、文化的相対主義を踏まえたうえで、しかし価値判断をも射程に含めた批評―これはジャンル批評、作家批評、作品批評のすべてのレヴェルにかかわった話です―はできんもんかいなというのが、現在、私が模索していることであります。

まあだから、ざっくり大きくいえば、今回の件は、カルチュラル・スタディーズがはらみがちな危険行為であったともいえるのでしょう。そこで真面目な人であれば、自身のポジショニングについて考えすぎて動けなくなるところでしょうが、そこはぼくは「天然」のひとなのでw、いろいろ妙な動きもするわけです。自覚が足りないといえばそれまでなんですけどね。ていうか、そうか、オレのやってることは一面でカルチュラル・スタディーズ的なもんだったんだな、ということにいまさら気づいたわけです。

そのへん、もともと何だかよく分からない場所から上がってきて「批評」とかやってるので、なかなか自分の立ち位置が見えにくいのですね。まぁそれも、自分の長所だととらえることにしますが。




あと、id:hizzzさんの日記はたいへん参考になりました。たいへん的確な批判で、もっとも腹に入るものでした。
まさに「秀才の論文」という感じですね。これ、五分の四くらいは素直な感嘆ですが、五分の一くらいは嫌味です。
なぜなら、今回はあなたが最も上位のメタ視点を取ったから。つまり、ぼくのポジショニングやまなざしの問題をいっておきながら、自分は「オチャー」にすぎないという、特権的な位置を取ってしまう。そりゃ卑怯だろうよ、というのが嫌味の所以です。あくまでこれは「嫌味」なので、生産的なものではありません。まーこんくらいは、言わせてくださいw。意見は意見として、おおむねとても真っ当なものだし、それは素直に認めているんだから。


ただ、あの加野瀬id:kanoseくんが今回と同じようなことをしていたとは驚きでした。
ぼくから見ると、彼こそ「あんた、内面あるんか?」というほど内面を見せない、とてもスタイリッシュなひとなのですが。それこそ、ぼくが彼に「あんたこそ内面を語れよ」と詰め寄るのもアリなほどに。まぁ彼は男性だし、ロフトプラスワンでモスコミュールをおごったこともあるから、このくらいは書いても構わないでしょう。



それはさておき。

もうデジャヴ感満載でお腹いっぱいであるが、なぜこうしたことが相も変らず「善意」の名の元に繰返されるのであろうかねー。自分が「善意」で「正義」で「崇高」で「博識」なメタ概念思想にあるならば、他者への結果は問わない自己無謬性への慢心。目的は手段を正統化しない。これを逸脱して、感情のままに否定&論理排除でのお互いのラベリング合戦は、とうてい「議論」とは言えないし不毛でしかないであろう。

「善意」の名で行われたのは、emifuwaさんも同様なわけで、この批判は文脈上、主にぼくに向けられているものとはいえ、両者に向けられたものとも解釈できます(件のPOPや、それを書いた書店員に対して、emifuwaさん達の側に「まなざし」の問題が生じていない、と強弁されるのならば話は別です。しかし、それはできないでしょう)。その意味で卓見(1/5嫌味含有w)だと思います。

ただ、もし彼女らが山下書店の書店員に直接、抗議をしたというのであれば、ぼくはこうした反応はしませんでした。なぜならそこで、当人同士の関係性が生じ、そのなかで何らかの解決がついただろうからです。まさに、hizzzさんもおっしゃっているとおりです。

自分達がマイノリティだから享受できないPOPに我慢するという必要もないし、POPターゲットとされた「腐女子」趣味的にダメなものをダメ出し表現する裁量権は充分に趣味人側にある。当事者である書店にメールなり手紙なりで一通り抗議すればいいことである。そしてこうしてうぢゃうぢゃ言ってるヲチャー等、ハナシの合わない者達に、なんだかんだ言われても無理に自説を通す為に無理に「付き合い」「内面を出す」必要はない。

だが、それはなされなかった。
だからこそ、そんなの、陰でごちゃごちゃいうなよ、という気持ちが、ぼくの内に生じたわけです。
相手に向き合っては何もいえないくせに、陰口だけは一人前という、「じぶん」から逃げている主体の匂いをかぎ取ったのですね。それが間違いだ、といわれれば間違いでしょう。
本当に、hizzzさんのいうとおり「メールなり手紙なりで一通り抗議すれば」、ぼくがごちゃごちゃ言う契機は生まれ得なかった。

といって、直接行動をせよ、といっているのではありません。為念。



それから、もう一点。これは、嫌味ヌキでもうちょっと建設的な議論につなげるためにおききするんですが。

石子順造の引用に関してです。

引用された「少女でなければかけない男性」という作家作品論は、「やおい」や「腐女子」趣味とはまったく関係ない

これどうなんでしょう。「やおい」「腐女子」を、作家創作や評論と完全に切り離せる、あるいは完全に切り離せるエリアがあると仮定するのであれば、このように無関係性を宣言することも可能でしょう。しかし、それは、いわば「やおい」「腐女子」趣味をとらえる際に、対象を限定する宣言に他ならないのではないでしょうか。
hizzzさんは、私に同人誌を見よ、フィールドワークをせよ、といわれましたね? それらはすべて「表現されたもの」「書/描かれたもの」です。マンガについての言説も含め、創作/評論/趣味の境界はとても曖昧なものとなっています。そこでは、表現論と受容論は一体となっている。私が石子順造を引用したのには、そうした意味もあります。


では、「表現されたもの」と無関係なフィールドワークとは、一体どういうものなのでしょうか。
「描/書くこと」とまったく無関係なやおい」「腐女子」趣味の理解とは、一体どういうものなのでしょうか。
それとも、石子順造もまた男性であり、男性主体の眼によってとらえられた「女性の可能性」とは、意味のないものということでしょうか。
さらに、私はあの引用を「マンガ表現史」という文脈を示すために用いました。そうした大きな流れのなかにさまざまなことを置くのは、けっして無意味なことではないと思います。
では、「マンガ表現史」とまったく無関係に存在するやおい」「腐女子」趣味とは、いったいどういったものなのでしょうか。また、それはどのような理由により、マンガ表現史とは無関係に存在しうるのでしょうか。


後学のためにもご教示いただければ幸いと存じます。