goito-mineral2004-08-16

腐女子の矜持」についての記述を読む。



http://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20040728#p3
http://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20040729#p4
http://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20040730#p1
http://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20040731#p1
http://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20040810#p1


うーーん。いろいろ複雑なのだな。

この日記の主の心境には、共感する部分もあるし、そんなに卑屈にならないで、もっと堂々としてなよ、と思う部分もある。日記の全体をみていないので、的はずれなことをいっているかもしれないけれど、もうすこし「やおい」や「ボーイズ・ラブ」のポジティヴな側面をみてもよいのでは? と思う。


もちろん、ぼくはどうしても、彼女らと同じ立場には立てないわけで、何をいったところで限界はある。ただ、ぼく自身の考え方としては、たとえばマンガ史という見方をとった場合、そのパースペクティヴからは、「やおい」「ボーイズ」は、積極的にその価値をとらえることはあっても、棄却されてよいものではないと考えている。
極端なことをいえば、『キャプテン翼』のマンガ史への最大の貢献は、大量の「やおい」同人誌を生じたことにあるとすらいえる。それは、「キャプ翼」同人誌から、いったい何人の作家が出て、しかもそこでの仕事に、表現上のイノヴェイションがどれほど含まれていたかを考えれば明白だろう。一方、その広がりに比して、オリジナルの『キャプテン翼』は表現のレヴェルでみれば、むしろ凡庸な作品ではなかったか?

たしかに、腐女子的な視線に対する、男子オタのホモフォビアにもとづく反発はあるだろう。だが、彼らは弱く、臆病なだけなのだ。自分が誰かの欲望の対象になること(もっといえば、愛されること)が怖くて仕方がないのだ。だから、あまり気にすることはないよ、と思う。さらに強くいえば、腐女子を攻撃する心理と、彼らが「モテない」原因は、実は同一のものだったりする。

それよりも、腐女子の内面にある、自分や自分たちを攻撃するような態度のほうが気になる。もっと楽に、自分に優しくしてあげてもいいんじゃないの? とお節介にも思ってしまうのである。その意味では「腐女子」という言葉もあまり好きではない。もっときれいな言葉が使われたっていいじゃないかと思う。


というわけで、1975年になされた、評論家・石子順造の文章を引用しておきます。

石子順造は、若くして亡くなってしまったため、いまではあまり記憶されていないが、マンガに対しても優れた評論を残した論者である。彼はこの発言の二年後に病死した。後の「やおい」も「ボーイズ・ラブ」も、「ロリコンコミック」も「萌え」も見ることはなかった。

少女マンガに、少女でなければかけない男性が描かれたとき、少女マンガは、少女を主人公としたつげ義春林静一上村一夫らの作品と同次元に並ぶだろう。それは自ら、現状の少女マンガの自己否定ではある。つまり、少女マンガとか少年マンガとかいう呼称がなくなり、ただマンガとなって、少女が女性の作家にも男性の作家にも描かれるようになる時期は、いつごろなのだろうか。おそらくあまりにも遠い将来なので、今のぼくには見当もつかない。が、そうなったときのマンガでは、少女の瞳はずっと小さくなり、髪も短く、手足もぐんと縮んでいることだろうとは思うのである。
石子順造 『国際婦人年と少女マンガ』 「中央公論」 1975年10月 中央公論社


「少女でなければかけない男性」のひとつの像が、「やおい」や「ボーイズ・ラブ」にもあるのではないだろうか?