BGMはCANのリミックス集 "SACRILEGE"。
イギリス人のリミキサーを中心としたテクノ・ミックス集ですね。タイトルの意味は挑発的に「冒涜」。
ぼくは、こういう皮肉まじりのセンスを「カッコイイ」と思ってしまうのです。



さて「腐女子」について。

id:emifuwaさん、id:XQOさん、勉強させていただいております。

これは皮肉ではなく、そういっています。
いささか曲解されている部分もあるようですが、まぁ、お互いに先を急がず、ゆっくりとお話できればと思います。途中で中断したり、再開したりしてもそれはそれで、というほどの構えで。

やりとりのなかで、いろいろ見えてくれば良しとするくらいで丁度いいんじゃないかと思います。

昨日づけのコメント欄で、id:emifuwaさんへのレスの形でいちおうのお答えはいたしました。
ぼくが「わかっていない」のは前提なので、ではまず、何が「わかっていない」のかを教えてください、という感じです。


「わかってない」と言ってしまう気持ちは分からないでもないんですよ。
でもね、それってホントに要注意の言葉でさ、「あんたは分かってない」ってのは、排除とか挑発とかの言葉でもあるんですよ。誰にだって、何にだって言えちゃう言葉でしょ。「分かってない」って。
内面の気持ち、心情の問題だから、他に言いようがないといえばない。ぼくにしても、つい言っちゃうことはあります。その都度、「あ、いかんいかん」と思い直すんですけど。

ぼくはぼくでしかないので、究極的にはあなたの気持ちはわからないし、女性の気持ちもわからない。老人になったこともないので、老人の気持ちもわからない。アメリカ人の気持ちもわからないし、自分の母親の気持ちもわからない。

でも、相手の気持ちを想像することはできるし、互いに歩み寄ることも、まあ、できなくはないでしょう。
社会ってそうやってあれこれぶつかって、折り合いをつけて出来てるわけだから。

だから、これはオタのみなさんに限った話ではないけれど、「わかってほしいけど、わかられてたまるか」という態度に出会うたびに、私はひどく悲しい気持ちになるのですよ。今回が、そういうものではないことを祈っています。




あとね。

id:XQOさんのご意見、この部分からいくらか。

副産物肯定の為に源流を否定すると捉えられかねない文言は
些か納得しかねるのです。私的な日記のおつもりなのでしょう
けど、『伊藤剛』という人を公側の人として認識する人は
世間にもWEB上にもいるのですから。

ウェブで公開でモノを書いている以上、私的も公的もないでしょう。誰にだって閲覧できるのだから、それ相応の責任は生じるし、それを「私的な日記ですから」と逃げるよう卑劣なマネはしませんよ。
これもぼくがよく知らない基準での判断のようなので、ちょっと言及しづらいところがあるんですが、たしかなのはXQOさんのような意味での「公-私」の区分は、ぼくの中にはないということです。
ことウェブでは、「公」も「私」もなく、発言したことには責任が生じる、それが自分のコントロールを超えて流通する、それだけのことでしょう。
だから、ぼくはここで、「オレをそんな卑劣漢どもと一緒にするのか! 舐められたもんだな! ゴルァ!」と逆ギレすることもできるんですよ(しませんけど)。


また私の立場やこれまでの仕事から、一定の権威のようなものが発生している(実際にそんなものがあるかどうかは分かりませんが)とのお考えからのご意見かとも思いますが、それにしても同じことです。
キャプテン翼』とその同人から派生した表現の話は、雑誌などではその機会がなかったので原稿にしたことはありませんが、たとえば某大学で行われた研究会での発表でも話をしていますし、まさに「評論家としての」発言と取ってくださって結構です。
ただ、私は『キャプテン翼』を「凡庸」とは評しましたが、これは「否定」ではありませんよね。「凡庸であることの価値」も、「凡庸であることに徹する尊さ」も、存在しています。

それを「源流を否定するとらえかねない」と、即座に解釈されることのほうに(つまり、二次創作と原典の間に、非常に強いヒエラルキー関係が設定され、それを冒すことは許されない、という考え方が背後にあることに)、強い関心を憶えています。


その関心とは、いうまでもなく、ぼくが基盤としている考え方との違いに基づくものです。
冒頭に「サクリリッジ」の例を示しましたが、原典に対してリスペクトをしながら、そこに隠れている諸々を暴き立てる、そんな批評的でラディカルな行為として「やおい」や「ボーイズ」を見ているところがあるからです。
おそらく、これは、XQOさんや、他の「当事者」の意識とは大きく食い違うものでしょう。実際に、そうしたラディカリズムという文脈でのアプローチに対して、「それは違う」と不快感が示されたという例は、「やおい」を研究した論文の記述で知っています。

しかし、しかしですよ。
それでも、「やっぱこれ、こっちから見たらラディカルじゃん」という見方は消えません。
だからね、一方ですごくラディカルなことをやってる人たちが、他方ですごく保守的で、既成の価値観を過剰に内面化しているという事態に出くわして、これは一体、どういうことなんだろう? と思っています(当然、それは、こういった考え方で「やおい」「ボーイズ」をとらえるということへの自省も伴います)。

そこに、「気持ちはわかるけどさ、もっと気楽に、明るくできないの?」
という気持ちがかぶさっているのですね。


とりあえず、今日はこのへんで。