岡田斗司夫氏の次の本『食べても太らない男のスイーツ』

このタイトルの意味は、エントリーを最後までお読みいただくと分かります(微妙に「釣り」ですw)。




オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)



岡田斗司夫氏の新著『オタクはすでに死んでいる』をめぐって、激しく、しかし冷ややかな反応がそこここでなされている(たとえば「幻視球 : 自称オタキング逃亡事件」http://xn--owt429bnip.net/2008/05/otaking.php 「オタクは死んだ! そしてゾンビとなって岡田斗司夫に襲いかかる - かむかむごっくん」http://d.hatena.ne.jp/kossetsu/20080507/p1)のを横目で見てたんですが、そういえばオレ五年前に「オタクは死んだ」って書いたことあったわ! と思い出しました。


東浩紀編『網状言論F改』の煽り文句@TINAMIXですね。
http://www.tinami.com/x/moujou/fkai.html
このキャッチコピーに「オタクは死んだ。だが萌えは生き残る」って書いてました。
この本、もう5年も前なんですねえ。早いもんだ。




まあ、このページの文章自体、当時TINAMIXを運営していた会社の社長に「書いて」って言われてはいはいと書いたものだし、無記名だったしで、いまさら「パクリやがって!」と言う気もさらさらない(もともとジョン・ライドンが言ったとされる「ロックは死んだ。だがポップは生き残る」のもじりですし)んですが、そういえばこんなんあったんだよな、ということは書いといてもいいかと。


岡田氏の該当の本については、実はあまり関心が持てないのですが(必要を感じたら読むかもしれませんが、その程度の関心)、彼が「オタクは死んだ」と言った根拠のひとつになっているであろう、オタクの共同体意識の失墜については、ぼくなりにいちおうその「共同体意識」について考えてきているので、言及しておこうと思います。
もともと、ぼく自身、何か共同体に帰属しているという意識がひどく希薄なこともあって、「私はオタクである」という自意識にしても、なぜそれがそれほど重大な意味を持ってしまうのか、ぴんと来ないものとしてありました。


一方、岡田さんにとっては、大切なアイデンティティだったのかもしれず、またたとえば大塚英志さんや小川びいさんのような方にとっての「おたく」もまた、岡田氏とは相容れないものの、やっぱり大切なアイデンティティの拠り所であるでしょうから、あまり無碍に扱うことはできないのですが、それでも、やはりそこにしがみつく態度には批判的にならざるを得ません。理由はふたつあります。ひとつは、思考の妨げにしかならないこと。もうひとつは、そもそもそうした共同体に帰属しているという意識は、必然的に共同体の「外」にも「内」にも敵を見出さざるを得ず、余計な排除と抑圧を生むということです。


オタク(を自認するひとたち)が「サブカル」趣味を持つ人々を「仮想敵」として、攻撃的な言辞や嘲笑を浴びせたりすることなどが、これにあたります。一方、「ぼくはサブカルです」という自意識を持つひとなど、まず存在しません。当のオタクたちに自分たちと同じような自意識の持ち方を誰もがしているわけではないという当たり前のことを気づかせずにきたのも、やはり同じく「私はオタクである」という自己規定です。


こうした共同体意識が生まれた心理的な背景については、『網状言論F改』所収の「網状の言論を解きほぐしていくこと」にも書きましたし、またその歴史的な来歴について、1970年代のマンガ言説で勃興した「ぼくら語り」の残照に見出す文章を拙著『マンガは変わる』の序文に書きましたので、関心のある方は参照してみてください。それなりにクリティカルなことを言っていると思います。


マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ

マンガは変わる―“マンガ語り”から“マンガ論”へ



「マンガを読むぼくら」という読者共同体は、いい歳をしてもマンガを卒業せず、マンガを読み続ける「ぼくら」という感性を根拠としていました。つまり、消極的であるにせよ、それは既成の「大人社会」への反抗としてあったのです。一方、この「ぼくら語り」的な共同体が急速に組織されていった背景には(とりあえず話を男性主体に限るとして)かつてあった「よき父」「強い男」になれ、という血縁共同体や家父長制的な国民国家が命じるロールモデルが失墜した戦後〜1970年代という時代の変化がありました。
そのなかで、第一世代の「オタク男性」たちは、ストレートに「よき父」「強い男」になるという道は選べず、かといって「よき父」でも「強い男」でもなく「自分自身」になるという成熟もできなかった一群の人たちととらえることができます。
そこで彼らが、とりあえず手近にあった「オタク/おたく」という共同体への帰属意識を仮想的に「強い父」を身ぶるための装置とて使ったのが実際という解釈できるのです。しかし、それは仮想的である以上、当然のことながら無理を生じる。そこで、中年を迎えた彼らは深刻なアイデンティティ・クライシスを迎えたのではないか。
また、そこで仮想的なアイデンティティ維持装置として用いられたものが「強い父」という、仮想的ではあるものの、それでもマッチョな男性主体の形骸化した振る舞いを引きずっているものである以上、とても女性嫌悪的であり、ホモフォビックなものになってしまうのは、必然といっていいでしょう。


そうです、彼らが(岡田斗司夫であれ、唐沢俊一であれ、大塚英志であれ)「萌え」に対して屈折した否定の仕方しかできないのは、「萌え」の”クィアな”性質ゆえのことと考えられるのです。
ぼくが『網状言論F改』で「萌えフォビア」という語を使ったのは、ここまで述べてきたようなことを説明したいがためだったのです。


こうした、男性オタク主体の問題については、いままでも折に触れ文章化してきました。近々では「思想地図」に寄せた論文も、主たるテーマは別ですが、同じ問題意識のもと書かれています。


NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本



ここにいたる過程で少しずつ論考を詰めていった部分もあり、かつ必要があれば今後も言及すべき問題系ではあると思いますが、個人的には岡田氏の言うような「オタクの死」は慶賀すべきことであれ、嘆くものではないと思っています。
誰かが「オタク」であるかないかなど、最初からどうでもよく、単に「アニメが好き」「ゲームが好き」「マンガが好き」でいいだけの話です。それぞれがそれぞれの対象を「好き」と言ってればいいだけの話です。そこで互いに「分かりあえない」のは当然のことで、それは出発点であって終着点ではありません。フリッパーズ・ギターの歌詞「分かりあえやしないってことだけを、分かりあうのさ」は、まさにそのことを適確に示したものでしょう(このパラグラフは、海燕さんid:kaien:20080509:p1に向けています)。


私たちは「分かりあっている」からコミュニケートするのではない。そもそも互いにすべて「分かりあえない」から懸命に言葉をつむぐのです。「他者と出会う」とはそうした認識のことだし、裏を返せば、そこで「ちゃんと一人になる」ことを引き受けた地点からはじめるということです。この当たり前のことが、岡田氏にはできていないようです。「オタクだからお互いに分かりあえる」という幻想は、そもそも真の意味でのコミュニケートの契機を塗りつぶし、見えなくする。社会学的な言い方をすれば、コミュニケーションコストの低減のための方策ということになるでしょうが、結局のところ、お互いに甘えあっているだけの相互依存にすぎません。言葉を変えれば、岡田氏はついに「自立する」ことがなかった。
事実、彼らの個人的な交際上でのトラブルで、オレと同じ価値観、問題意識を共有しないおまえは間違っているというものがいかに多かったかを思い出してください。岡田氏であれば竹熊健太郎氏や大泉実成氏とのトラブル、唐沢俊一は言うに及ばず、あるいは大塚英志氏の対談相手などに対するアンフェアな振る舞い、不寛容な態度……。


だから、オタクの「死後」の世界のほうが、よほどものを考える契機には満ちている。よほど穏やかで、公平な世界です。「ちゃんと一人になれなかった」オッサンらの寂しさが転じたあんたらオタクの攻撃性のほうがナンボかうざいよ、てなもんです。


ところで、実は岡田氏は、1998年というたいへん早い時期から、今回の「オタクの死」にほど近いことを言っておられます。意外に誰も言及していないのですが、『岡田斗司夫・世紀末・対談 マジメな話』(アスペクト)の最終章、当時の奥様でいらっしゃった岡田和美さんとの対談です。この対談で岡田氏は自分に「わからない世代」が出てきたことをしんみりと認めています。また、これから自分は「おセンチ」になろう、「女々しく」なろうか、とも。
10年前の本ですが、いまの目で読み直すとさまざまな発見があると思います。


マジメな話―岡田斗司夫 世紀末・対談

マジメな話―岡田斗司夫 世紀末・対談



最後に、岡田氏の今後の身の処し方なんですが、僭越ながらぼくなりに考えてみました。
これから岡田さんは、「男のおばさん」としてやっていくのがいいと思うんですよ。「男らしさ」を男らしく(笑)かなぐり捨て、女々しさも細かさもおセンチさもおおらかに表に出していく「おばさん」としての後半生です。


だから、これまた僭越ながらぼくなりに岡田さんの次著の企画を考えてみたのが、『食べても太らない男のスイーツ』なんですね。
スイーツ(笑)じゃありませんよ。真面目に「スイーツ」です。
岡田さんなりに、それこそオタクらしく工夫をこらしたローカロリー、ローファットのレシピで、ブラマンジェとかブランデーケーキとかの作り方を紹介しつつ、「食べたらすぐ消えてしまう」スイーツを、後に残すことのできない一期一会の創作活動として提案するのです。


すると、一期一会のアート→日本戦後現代美術→石子順造椹木野衣→『戦争と万博』→大阪万博→昭和ノスタルジー→お母さんが作ってくれた美味しいお菓子 という展開も可能です。


おお、まとまったではないですか。
これですよ、これ。
岡田斗司夫スイーツ男おばさん化計画、いかがですか。ぼくは一銭もいりませんのでw