goito-mineral2004-10-10

タイ料理を中心にした画像集
http://www.media.osaka-cu.ac.jp/~nagata/thai/

雷魚料理はちょっと抵抗があるなー。雷魚っていうと用水路で泳いでいたイメージが強いので、どうしてもあの生ぬるい水の感覚と、ぬめっとした生臭さを思い浮かべてしまう。


さてこちらの画像はオタクの部屋(?)、部分。
ヴェネツィアビエンナーレのカタログ日本版を買いました。なぜ自分の部屋に疑問符をつけているかというと、本書に収録されている「おたくの部屋」の特徴を、いくつか有していないため。これは昔からそうなのだけれど、ぼくはキャラのポスター類を部屋に貼るのが苦手なのだ。なんかこう、刺激が強すぎて気が散る感じがする。

しかし、今回のビエンナーレ日本館の企画は、岡田斗司夫がやりたくてできなかったことなんじゃないか。
なぜ彼は「オタク」を称揚する身振りを途中で放棄せざるを得なかったのか。
ぼくは、それを彼の「すねる」気持ちに求める。
松谷創一郎さんは、それを宮台真司のいう「韜晦」だというけれど、ぼくはここで「すねる気持ち」や「否認」を、「韜晦」も含めた広い意味に使っている。自分に対するプラスの評価や信頼に対する不信と怯え、不必要な露悪性、内に向かっては教条的、外に対しては強迫的な姿勢……などなど。

今回のヴェネツィアでの森川嘉一郎さんの企画は、そうした「すねる気持ち」を刺激しないように入念に工夫されていたものだと思う。「侘び」「寂び」「萌え」「ぷに」「へたれ」「やおい」……と来て、森川さんはオタクの特性として「ダメ」を強調するが、ぼくはここに「すね」をつけ加えておきたい。

「すね」の特徴は、「あんた、すねているだろう」と指摘しても、まず「そんなことはない!」という反応が返ってくることだ。そして、そうやって否定する身振りこそが「すね」を肯定することに気づき、今度はパフォーマティヴに「そうですよ、すねてますが何か?」と彼はいうだろう。とりあえず、男性の場合はこんな感じだ。女性にも「すね」はある筈だが、それがどう顕れるのかはよく分からない。


しかし、そのオタクの「すね」も、世代が下がるごとにどんどん減っているように思う。松谷さんは「すねている」オタクの姿勢と、かつてのトンガリキッズとの相似を指摘するけれど、しかし、大きく違うのは、いま「すねて」いるオタクの層が、圧倒的に高齢化しているということ。若くて三十代、メインは四十代だ。そのまま偏屈なジジイになる、という自己イメージでいるのだろうか。はげげげげげげげ。