大谷昭宏氏とダメなオタの相似形

大谷昭宏さんら「発」の公開質問状の数々
http://d.hatena.ne.jp/heso/20050109#p1


自分が出すのはいいが、もらうのには「一方的」と怒ってみせるということですか。
あと彼が「質問状」に怒り、相手をメディアでひどく攻撃したのはこれがはじめてではない様子。
http://www1.doshisha.ac.jp/~kasano/FEATURES/OTHERS/ootani.html


このケースで大谷氏が「相手」と認定したのは「新聞学の教授」。
こうした一連の行動は「オレに歯向かうとテレビや新聞であることないこと言うぞ、書くぞ」というえげつない脅しとも取れる。
ひどく針ネズミ的な、防衛的な態度といっていいだろう。


一見すると「私こそが正義」という傲慢さにも見えるが、ようは、相手と対等な目線で対話することを拒否してみせ、相手に対して「一個の社会人」という責任ある位置から降りてみせるという戦略とも解釈できる。
ここで無意識下の<戦略>まで考慮にいれるのであれば、そういうことになるだろう。重要なのは、「公開質問状を送られたこと自体」に怒ってみせ、質問に答えること自体を回避する態度だ。真に「私こそ正義だ」と信じているのならば、堂々と、それこそ倣岸に、饒舌に返答することだってできるからだ。


しかし、大谷氏がまったくそうする素振りもみせず、逆にこれだけ容易に指摘されるボロを出し続けるということは、言外に「私は卑怯者です。だから真っ当な人間として相手をしないでください」というメッセージを発し続ける身振りとしていいんじゃないか。攻撃的にみせて実は相手には正面から立ち向かわないという、そんな「弱者」を身ぶってみせる態度。


まるでダメなオタクみたいだ。
かくして、オタクに対して「バッシング」する大谷氏の態度と、それに対して「身を潜めてやりすごせ」と、殊更に強調するオタク側の態度とに、きれいな相似形を見出すことができる。ようは、「身を潜めてやりすごせ」的な意見とは、オタクたちに「自分を真っ当な社会の成員とはみなすな」という言外のメッセージなわけだから。大谷氏への批判が、そのメッセージの届く相手を特定していないのに対し、「やりすごせ」的なメッセージは、オタク(という自意識を持った者)にしか届かない。
もっといえば、オタク以外に大谷氏を批判する者がいるということが全く想定されていない。一見すると「世間」を意識しているようにみえて、実は「オタク内部」しか意識されていない。そこに気づかないといけない。「はてなキーワード」をたどってみれば、大谷昭宏氏への批判的な論調が、「オタクという自意識」の圏域をすでに超えはじめていることは分るだろう。
たとえば、「やりすごせ」的なメッセージが、id:heso君にとって有効なメッセージとして機能するかといえば、そうではない。しかし、ウェブに書かれた以上、その意見表明は誰にでも読めてしまう。そこでは、「私たちはダメな者です。だから真っ当な相手として扱わないでください」というメッセージが立ち上がってしまう。


これが見えたってのが、本件の意外な収穫だったんじゃないだろうか。


さらに、たとえば「オタクの精神史」に関心のあるひとの興味に接続するのならば、社会に「対抗」する身振りが固着してしまった「団塊の世代」と、その「対抗の身振り」から「退行してみせる」ことで自らをアイデンティファイしてきた「第一世代オタク」に、悲しいかな、相同の「病理」があったということになる。


そういえば、岡田斗司夫の最初の著書『ぼくたちの洗脳社会』を担当した朝日新聞社の編集者と飲んだとき、「団塊の世代に対抗するには、オタクを持ち出すしかないと思ったんですけど‥‥何にも出てきませんでしたねえ‥‥」といわれたことがあった。


それももう、7年も前のことだけれど。