宮崎事件によるレイベリングと二次的逸脱



http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/comment?date=20050116#c
松谷創一郎さんのところのコメント欄を参照。
レイベリングと二次的逸脱については、また項をあらためて展開してほしいと思います。>松谷さん。


松谷創一郎さんwrote:

岡田さんのその話は知りませんでしたよ。岡田さんらしいなぁとも思いますが、実は流れとしてはオタクの歴史的文脈には沿っているとは思います。自意識過剰な自己否定ならびに自己韜晦でしか自己が成立しえないというあたりは、宮崎事件のときにも見られたものなので。で、そのような岡田さんの振るまいはレイベリング論的に言えば、二次的逸脱ということになります。なんらかのラベル(これならフィギュア萌え族)を張られた者が、それをアイデンティティの中核に据えて、さらなる逸脱的振る舞いをしていく、というものです。暴走族とかコギャルとかの場合でも同様のことはありました。それのひとつでしょうね。それでいいかどうかはべつですが。



岡田斗司夫の「オタク大賞」に「フィギュア萌え族」を選ぶというセンスは、本当にダメだなあと思います。およそ大谷昭宏氏に対する揶揄を意図したものなのでしょうが、「あえてそれに授賞する」という振る舞いが、岡田氏らの感覚が共有されている圏域を超えて機能すると思っていたとしたら、それはおめでたいとしか言いようがない。これは大谷昭宏さんフィギュアや、大谷昭子たんとは大きく異なった性格のものです。こちらは、ビジュアルを伴うことで一目で分る批評的な行為となっているわけですからね。
岡田氏たちにとっては、すでにこの手のシニカルな姿勢が習い性になっているのだろうし、また、彼らはその態度を取り続けることをもって、自分自身をアイデンティファイしているのでしょう。悲しく、そして、ばかばかしいことです。


今回の一件で、ほうぼうのブログや日記を見て感じたのは、「宮崎事件によるトラウマの強迫的な反復」という欲望の存在でした。考えてみれば、「宮崎事件」とは社会が「オタク」という存在を発見したものであったし、またそれは、当の「オタク」にとっても自らを「オタクである」とアイデンティファイする契機であったのでしょう。つまり、起源が外傷的であったがゆえに、隠蔽されるという構造になっている。隠蔽、というよりは「否認」ですかね。


だから、たとえば70年代からアニメのファンダム活動などを続けてきたひとに対して、「昔からオタクだった」という言い方は、厳密にはできないことになります。少なくとも「自意識」のレヴェルでは、それは遡行して見出されるものだからです。
ここは気をつけないといけないポイントです。当事者であるひとの「証言」でも、その「語り」のなかで記憶の改変が行われている可能性があるからです。具体的には、こっちで言ってることと、あっちで言ってることに矛盾があったり、前に言っていた評価と、その後のものが食い違っているなどが「徴候」として見出せます。真に「オタクの精神史」を検討するのであれば、こうした無意識下のレヴェルまで踏み込まなければならないでしょう。そうでなければ、単にオタが自身をナルシスティックに慰撫するような「歴史」しか出てこないことになります。
実際のところ、オタクの「正史」を云々と平気でいってしまえる素朴さに、べたべたのナルシズムは感じられています。