フラットキャラクター/ラウンドキャラクター

いやもう、ホントにこの数日間は、嵐のように過ぎ去っていったのでした。
いまの体制でミネラルマーケットに関わりだして五年目ですが、今年がいちばん疲れたかもしれない。それは、今年がもっとも仕事が忙しかったからなんですが(マーケット自体は軌道に乗ってきているので、こっちの稼動はたぶん減っている)、それにしてもくたびれました。もう、くたくた。




その本業というか、テヅカイズで提示した「キャラ/キャラクター」に関して小田切博さんid:boxman からとても有益がサジェスチョンをいただいているのですが、そして、それはたいへんありがたいものなのですが http://d.hatena.ne.jp/boxman/20060604#p1、いまは最低限の反応しかできないのです。すいません。


それでも、「なあんだ、キャラ/キャラクターの概念分割は新しくもなんでもなかったんだ」と早飲み込みをしてしまうひとが出てくるとよくないので(最近になって、本を読みもしないで批判をするひとも出てきているし……)注記的に記しておくと、小田切さんが紹介してくれた「フラットキャラクター/ラウンドキャラクター」という概念対は、とてもクリアであり、この問題系について考える際にとても有効な補助線になるとは思うのですが、しかし、たとえば「意味」と「図像」をきれいに二項対立させることについては、ぼくはあまり賛成できないのです。それはまさに「シンボル」と「イメージ」の二項対立に他ならず、それだけではとらえきれないのが「キャラ」という存在だと考えているからなのですね。テヅカイズで、インデックス/アイコン/シンボルと分けるパースの記号学を参照しなかったのも同じ理由によるものです。


田切さんは、

個人的にはこんなことは「フラットキャラクター/ラウンドキャラクター」という考え方を導入すれば簡単に説明できると思った。

と言い切っておられますが、たぶん事態はそう簡単にはとらえられるものではないと思います。「こんなこと」というのは、ライトノベルのような、図像を必ずしも伴わない「キャラ」についての議論ですね。

「フラットキャラクター/ラウンドキャラクター」というのはイギリスの小説家E・M・フォスターが文芸理論書『小説の諸相(Aspects of the Novel)』のなかで提唱した概念で、フラットキャラクターとは小説中で平面的なある種の類型(Types)として描かれる人物像、ラウンドキャラクターとは立体的な劇中の事件に伴って内面的な変化を見せるような人物像である。



ということなんですが、ここであらためていっておきたいのは、拙著で展開した「キャラ/キャラクター」という概念は、おそらく(『小説の諸相』の原著を読んでいないので断言はせずにおきますが……これって邦訳は出てるの?>小田切さん)「フラット/ラウンド」という概念にすっぽり収まるものではないということです。たとえば、東浩紀くんが紀伊国屋のときに何をいっていたのかは、これまた最近になって新城カズマライトノベル超入門』ISBN:4797333383く分かったんですが、同書で展開されている議論にしても、「フラット/ラウンド」だけで切ってしまったのでは、肝心なところを捨象してしまいかねないような感触があります。


しかし、それをしっかり主張するには、いったんは「フラット/ラウンド」といった概念を検討したうえで、それから「キャラ/キャラクター」の問題系に進んだほうがよかったかもしれない。それは確かなことでしょう。


とりあえず、今晩はこのへんで。