標本の売買について

某君と電話で話す。
彼が高校のころの地学の先生というのが、「鉱物化石を売買するのはけしからん」ということを強く主張していたのだそうだ。

その先生こそ、関西某有名私大付属高校の教員で、かつてのこの日記でも触れた「著書でジルコンと鋭錐石を取り違えていた」ひとである。某君によれば、共産党員だったそうで、これはもう、鉄板で地団研だろう。140%くらいの確率でそうだと思う。


何度も繰り返し主張していることだし、今後も繰り返すと思うけれど、「鉱物化石の標本は売買するものではない」「石を売るようなアマチュアが産地を荒らしている」という<思想>ほど、有害なものはない。どのような意味で「有害」といっているかというと、それはひとえに標本の将来へ向けた維持を阻害するというのが一点、そして個々人の「趣味」としての、知的な営みとしての鉱物収集の進展を妨げることがもう一点である。

前者について、これまた何度も何度もウェンデル・ウィルソンの言葉をひいているが、「市場には標本を維持する機能がある」のである。単純な理屈だ。鉱物標本のオーナーが死んだあとのことを考えてみればいい。もし売買できないものであれば、遺族はそれを捨てるか、せいぜい知己のあったひとに分配するしかなくなる。たいがいの場合、ただ捨てられ、なくなってしまだろう。なぜなら、本人以外には「価値のない」ものと見なされるからだ。

というと、次には「それは死に際したような場合はそうだろうが、通常は違う」と、一歩、後退した反論が寄せられるかもしれない。しかし、個人の「死」によってすべては失われるが、我々は日常のなかでも、部分的にいろいろなものを失っている。転居のとき、結婚のとき、なにより鉱物趣味に飽きたとき。そして、常に余剰の標本は存在している。「売買」が不可能となれば、死蔵されたり、ただ捨てられる確率は大きくなる。

後者については、すでにこの日記でも触れているが、ようは、「自分が採ってきたもの」に対する思い入れから出られず、価値の相対化ができないこと、そして、世界はじゅうぶんに広く、自然はこんなに大きいのに、ごく限られた視野しか得られなくなってしまうことがその理由である。
これは、海外産の鉱物を知る機会のことに留まらない。「石を買う」こととは、自分以外の数多くのひとによる「蓄積」へのアクセスに他ならない。それを阻害することとは、過去への想像力を失わせる。過去への想像力が失われるということは、未来への想像力も同様に失われるということだ。


なぜ私が、「標本の維持」のことを殊更にいうかといえば、たしかに鉱物は天然自然のものではあるが、その「保護」、「維持」となると、動植物のそれとは扱いかたが違うからだ。
ものにもよるが、地表に露出し、風雨にさらされていたら、多くの鉱物は変質し、色あせ、だめになってしまう。そこが分かっていないと、「自然保護」の名のもと、せっかくの鉱物をむざむざ風化させてしまうことにもなる。たとえば、昨日、画像を載せた「鶏冠石」など、光に晒しておいたら分解して黄色い粉になってしまう。できるだけ暗所に置かないといけない。だから、撮影後すぐに箱に戻している。

一昨年、話題になった和歌山県手稲石の場合にも、その危惧はあった。現場で風雨にさらされていたら、間もなく分解し去ってしまったことだろう。手稲石の場合には、かなり問題のあるコレクターの行動もあったため、一概に擁護はできないが(そこで問題の中核にあった関西の某氏については、ミネラルマーケットへの出品・出展をお断りしている。これは「出入り禁止」と取ってもらってかまわない。そもそも20年前から問題人物といわれていた某氏に、一度でも出展を許したこと自体、主催者側のワキが甘かったと思っている。私は当初より彼の出展には反対だった。)、しかし、真の意味で「保護」されたのは、何らかの形で「標本」として扱われたものに限られている。その意味では、ホリミネラロジーが現場に鉱業権をかけた方からオフィシャルに標本を仕入れたことは、ひとつの解決法として評価されていい。


欧米に限らず、クラシカル・スペシメンのなかには、百年を超えて存在しているものがある。
もし、標本の売買が行われてこなかったとしたら、これらの逸品は保存されてこなかっただろう。それは、いまマニアによって採集されているものも同じである。これは売買してもいい、こちらはダメ、とする合理的な理由は存在しない。もっとも、制度的な理由―天然記念物であるとか―がある場合は別である。だがそれも、国や行政の研究機関、教育機関による標本の維持が保証されていることではじめて制限が可能となっている。

つまり、鉱物標本に対して、「一般に」売買をよくないとする考え方は成り立たない。それは、社会の経済活動の「外部」に自分を置きたいという衝動とも通じているのかもしれない。

じぶんが死んでも、石は残る。本当にいい鉱物標本を持つことを「これは、本当の意味では自分のものではない。一時、お借りしているだけなのだ。管理を任されているだけなのだ」といったひとがいた。では、石の売買にかかるコストも、大きくいえばその「管理費」である。


「産地が荒れる」という問題については、また事情が複雑になってくるので、あらためて触れることになると思う。気が向いたときになるけれど。