『御緩漫玉日記』についての考察

「七里の鼻の小皺」
http://d.hatena.ne.jp/nanari/20050204#p1


たいへん的確かつ詳細な分析だったのでクリップ。
みなさん、ぜひ読んでください。
こちらからリンクして言及するという行為自体に不遜なものを感じ、恐縮しつつ触れる感じですが、素晴らしいと思います。オレなんか出る幕ないなって感じすらしました。
こないだの「ユリイカ」で、「従来からの”まんが評論家”とか、大学でマンガ論とかやってる一部の学者は、ウェブでの言説に比べたら最後尾ですわ」という意味のことを書きましたが、あらためてそう思いました。
もちろん、学の内部にも在野にも、優れた論者はいるんですが。


リンクした以上、できるだけ真面目に持論を述べることにします。一部は現在進行中(進行しっぱなし‥)の書き下ろし原稿からの流用ですがご勘弁。


御緩漫玉日記 (1) (Beam comix)

御緩漫玉日記 (1) (Beam comix)





id:nanariさんが指摘する、『御緩(おゆるり、と読む)』の、「トクコ編」(玉吉の過去の話。トクコちゃんというアシスタントの女の子が登場する)が、他のエピソードと虚構性の程度が異なるということはぼくも気になっていた。


そういうとき、ぼくはどうしても形式のレヴェルのほうに目が行きがちなので、フキダシにセリフを入れているものと、コマ内に「ナレーション」を入れているものの比率が、これまでの『幽玄漫玉日記』などとは異なるではないか? と考えていた。ようは、通常の(フィクションであることが前提となっている)マンガで普通に用いられているような、キャラ絵とフキダシの組み合わせでダイアログを見せるという形式の側に寄っているのではないか? と考えたのである。


id:nanariさんも指摘しているが、「トクコ編」(この呼称もnanariさんに従っている)は、明らかに「これはフィクションである」という前提で描かれている。その前提を明示しているのだ。普段であれば登場するのは作者と同名の「桜玉吉」であるが、ここでは「桜タモ吉」となっている。担当編集者である「広瀬/ピロセ/ヒロポン」も、ここでは「白瀬」と仮名となっている。
ようは、「トクコ編」は、普段の『漫玉日記』での「エッセイマンガ」という形式よりも、通常の「物語マンガ」に近いのではないかといいたいのである。もちろん「物語マンガ」とは、それがフィクショナルなものであることを前提に読まれるものだ。作中の人々の呼称などを「仮名化」することだけでなく、形式の側にもその変化は見られるはずだということだ。


もとより、マンガという形式は文字表現に比して虚構性が高い。その虚構性の高さゆえに、「物語ること」を強いられてきたメディアであるということもできるだろう。そのなかにあって、「エッセイマンガ」というものがいかにして成立したのか? あるいはそれを成立させている制度的な条件な何か? ということについては、前々から考えていた。『漫玉日記』での内容に伴った形式の変化は、それによいヒントをくれるのではないかと思っていたのである。


nanariさんの考察は、桜玉吉という描き手が、「現実の虚構化」という問題と常に格闘してきた、その軌跡に向けられている。以下、ちょっと引用。

今までの「漫玉」シリーズをとおして、作者は現実の虚構化という問題と常に格闘してきた。『幽玄』第六巻、113頁で漏らされる、「実在の周囲の人達をいじくり倒し傷つけているのだ」という言葉を思い出そう。桜玉吉の日記マンガの素晴らしさは、現実を虚構化してしまうことに対する、この葛藤のなかにある。書くことは、この作品化・虚構化という問題に、不可避的に直面する。それに対峙するとき、人は初めて、真の意味で書き始めているのだと言ってもいい。書かれたことは、書く「現在」に対して、いつも遅れている。それでも、その書かれたことと、書く「現在」とを、ある回路をとおして接続しようとする人がいて、われわれは彼らを作家と呼んでいるのだ。自分が虚構しか書けないという問題に、桜玉吉ほど真摯に立ち向かったマンガ家は稀である。



桜玉吉をこのように評価することについては、ぼくも同意する。
「現実を虚構化すること」とは、いかなる方法であっても、表現には必然的に伴われる。nanariさんの考察は、ひとまずそのレヴェルに留まっている。これが「マンガであること」が引き寄せてしまうことにまでは、さほど踏み込まれていない。もっとも、これはぼくと彼(男性ですよね?)との関心領域の違いなのだろうけれど。


ぼくは、桜玉吉(や、西原理恵子)は、その「現実を虚構化」することへの葛藤に、表現のレヴェルで答えてきたと考えている。彼らの営為は、「エッセイマンガ」という形式のレヴェルに踏み込んだものだと思う。それを考えてみよう。


マンガには、表現のリアリティを支える装置が三つある、というのが私の考えだ。
「キャラ」「コマ構造」「文字」である。
さらに「文字」のレイヤーは、以下の三つに分けられる。


1. 作品世界中で、音声で聞こえるもの。あるいは、言葉として認識されているもの。
2.作品世界への言及、形容として存在するもの。
3.作品世界の外に存在するもの。


こうした整理については、まだ「考え中」なので、これがベストではないのだが、(2)の「作品世界への言及、形容」とは、たとえば擬態語を描き文字で入れる場合なども含む。
「言及」という言い方はあまり的確でないかもしれないが、ようするに、作品世界の中の人には知覚できない「文字」のことである。たとえば、登場人物が手を動かした際、「ゆらあり」という描き文字が添えられていたとして、その作中の人物には、手を動かしたさまやそのときの表情などが知覚されている筈である。「ゆらあり」という文字が空中に生じるのを見ているわけでもなければ、「ゆらあり」という音を聞くわけでもない。つまり、「ゆらあり」というのは、登場人物の動作に対する「形容」である。その「形容」がどこから来るかといえば、それはやはり、作品世界の外からであろう。そこで、とりあえず「作品世界への言及」というカテゴリを設定したわけだ。


それから、登場人物の「内語」については、とりあえず(1)の、「作品世界内」のものに含めているが、これにも(2)のカテゴリのほうが適当なものがあるだろう。その程度には、この区分は大まかなものである。
さらに(3)の、「作品世界の外」の「文字」とは、たとえばコマの欄外の自分へのツッコミや、あるいは、コマ内にでも「作者の声」として挿入されるものを指していっている。むしろこっちのほうが「言及」という言葉にはふさわしいのだが、とりあえず「作者」が通常の(マンガ以外の)文字表現で行うのと同じように心情を吐露したり、場合によっては内面を語ったりできるレヴェルということで、「作品世界の外」とした。小林よしのりゴーマニズム宣言』の欄外などが、この例として挙げられるだろう。


何がいいたいかというと、通常の「物語マンガ」であれば、このような「マンガに描/書かれる文字」の機能を段階に分けて考える必要は、あまりないということだ。だが「エッセイマンガ」はそうではない。「私」の身辺に起きることを透明に語るには、「物語マンガ」の形式は虚構性が強すぎる。そこで、従来から「私」を語りうるという前提が暗黙のうちに共有されている「言葉による語り」のレヴェルを、マンガのどこかに挿入する必要が生じる。そこで開発されたのが、コマの左右に「手書きで」「フキダシやコマ枠に囲われずに」挿入された「言葉」という形式なのではないか。


語られる「私」をマンガ家である「作者」であるとする。では、その「私」の言葉を、マンガの中でどのように置けば、より「私」の側に引き寄せられるのか。言い方をかえればそういうことである。多く「エッセイマンガ」で、ネームが「手書き」であることもまた、そこに固有の筆跡を見せることで、より「作者である私」の固有性を明確にするものと考えられる。


しかし、ここで問題が生じる。なぜなら「エッセイマンガ」の場合、キャラとして描かれた「作中人物」もまた、「私」であるからである。つまり、「エッセイマンガ」の作者は、必然的に「文字による語り」と、「キャラの発話や内語による語り」のどちらをも「私」の「語り」としてしまえるという問題に直面する。いいかたを換えれば、「文字によって語られる私」、すなわち、通常の近代的な意味での「私」と、「キャラとしての私」との間に、必然的に引き裂かれるということである。


ここに、「語ること」の虚構性という問題系において、マンガが有している固有の問題があると考えられる。そしてまた、キャラクター表現全体のなかでマンガを見た場合、おそらく現状では「マンガ」を特権化しうる唯一の点がこれなのではないだろうか。「エッセイアニメ」「エッセイゲーム」といったものは、いまのところ存在していないわけだから。


nanariさんは、「トクコ編」において、桜玉吉がこれまでもち続けてきた「虚構性への葛藤」を捨ててしまうのではないかと危惧する。

もしも、「トクコ篇」という枠組みが、フィクションという前提条件となって、このような虚構性を葛藤なしに許容しているのだとしたら、それは残念なことだ。もしも、すべてが完全なフィクションとしてすっかり保証されて、かねてから桜玉吉が言っていた、エロスを描くことだけを目的とした作品が書かれ始めてしまうとしたら、それは大きな損失である。

いや、実際のところ、そのような徴候がまったくないとはいえない。



この「危惧」については、そう考える気持ちも分らなくはない。
しかし、これもまた、玉吉のさらなるチャレンジなのではないかという気もする。「現実を虚構化することへの葛藤」が、「自分がマンガなんか描いちゃっていること」への含羞というか、照れのようなものに発するものであることも想像されるからだ。最初っから照れるくらいなら、先に裸になっちゃえ、というほどの心理である。


とはいえ、玉吉がこの先も照れずに「かすかな「エロスとロマンス」(同書、帯)、あるいは中年の「萌え」を描くという、表向きの主題が、全てを覆い隠してしまう」ものを描く(描ける)とも、あまり思えない。というか、O村編集長こと奥村さんがそれを許さないような気がするw。
これは希望も含めていうけれど、さらに「エッセイマンガ」と「物語マンガ」のどちらの形式も侵犯するようなテクストになっていくのではないかと思っている。


そして、その徴候もあるように思われる。


『御緩』が手元にある方は、169ページを見てもらいたい。
「トクコちゃん」が「タモ吉」の仕事場へと急ぐシーンが1ページを使って描かれている。この場面には「タモ吉」は不在であり、描かれているのは、彼の立場から想像された「トクコちゃん」の様子だ。


しかし、ここでの「トクコちゃん」には、彼女の「内語」が伴われている。
「あああ7時10分! 完全に遅刻だ! アイツのせいで」
にはじまり、自分のふがいない彼氏のことや、自分の置かれた状況について、走りながら自問自答する「内語」が書かれている。


たしかに、このことだけを見れば、nanariさんが指摘するように「虚構性への居直り」のようなものとして捉えられるだろう。「タモ吉」が、現実の作者である桜玉吉を指し示すものであり、ここでの「トクコちゃん」の内語とは、その「タモ吉」という妻子のある親父の想像にすぎないものであるわけだから。


しかし、これはやはり『漫玉日記』なのである。そう簡単にロマンティックな虚構に居直ることは許されない。何よりも、読者も、そして作者も、これまで描かれてきた『漫玉日記』の蓄積のうえにこれを描いて/読んでいるのだ。


そのことは、むしろ形式のレヴェルに現れていると思う。
このページの「トクコちゃん」の内語を示す文字が、どのような位置に書かれていかを見てみよう。
コマの左右に、縦書きで、フキダシやコマ枠に囲われずに書かれているだろう。
『漫玉日記』において、この位置は「作者である私」の語りが置かれた場所ではなかったか。それは、エッセイマンガ一般における「作者である私」の語りの場所の一例でもある。ここは形式上、「キャラである私=トクコ」の語りが占める位置ではないのである。


つまり、このページでは、玉吉はその「作者である私」の特権的な場所(テクストの外からの言葉が置かれるはずの場所)を、「トクコちゃん」という作中人物の「内面」に明け渡している。
本来であれば、「トクコちゃん」の内語は、それを示すフキダシ(「しっぽ」が水泡のような形をしているものや、放射状の線分で囲われたもの)か、コマ枠で囲われた中に書かれるべきものであった筈だ。しかし、『漫玉日記』がこれまで「エッセイマンガ」という形式を自覚的に続けてきた以上、それは許されない(無理に内語フキダシを描いたところで、違和感が残っただろう)。
そこで、仕方なくなのか、意識的にかはともかく、テクストに書きこまれる「言葉」の位置に「交叉」が生じている。しかも、この「交叉」は、これが『漫玉日記』であることによる必然である。
この一点で、「トクコ編」の「エロさ」は、「何歳も年下の女の子のことをあれこれ想像する妻子持ちの親父」の内面をのぞき見ることの「エロス」へ導かれているように思う。


以上が、今後の『漫玉日記』が、そうやすやすと「虚構を語ること」への居直りにはならないだろうと考える理由である。