佐藤秀峰から青年マンガをみる

佐藤秀峰についての原稿を書く必要から、『海猿』全巻を再読。現在の『ブラックジャックによろしく』に至る、マンガ話法の洗練の過程をどう追うか、という読み方をする。


青年マンガと少年マンガを別ジャンルとしてとらえようとする際、その分割はどう行われるか? というのがここしばらく「難問」としてあった。まず「少年マンガ誌に掲載されているから少年マンガ」という掲載誌による分割ではなく、表現のレヴェルでそれがいえないかという前提がある。実際、我々は少年誌を読んでいても「このマンガは青年マンガ的だな」と判断したりする。その逆もしかり。また他方で、たとえば『ワンピース』を評するとき、これは「少年マンガ」としか他に呼びようのないものだ、と考えもする。
いずれにしても、漠然とはしているが、確かに「少年マンガ/青年マンガ」という分割を行っている。それは間違いのない、動かしがたい事実だ。いくら読者集団が年齢や性別できれいに分けられるものではなくなっているとはいえ、いや、だからこそ表現のレヴェルでのジャンル分けは強く意識される。

では、表現のレヴェルでのジャンル分割はどのようにされているのか。その言語化は必要だろう。
なぜならば「青年」「少年」というマーケットのセグメントでしかそれが呼ばれていないからだ。すでに本当は表現のレヴェルでの差異に基づくジャンル分けとなっているといったほうがよほど現状に即していることは、多くのひとの納得するところだろう。だが、マーケットの名称に引きずられることで、表現、つまり主題をどう描いているかというレヴェルでの議論の導入が阻害されている。もっといえば、それを表現のレヴェルでの差異としてとらえること自体が気づかれていない場合も考えられる。そこに適当な言葉がないからだ。

このことは、「少年マンガ」「青年マンガ」に留まらない。ここに「少女マンガ」を置けば明確だろう。また「ヤングレディース」などの、いささか苦し紛れのジャンル命名は、もっとはっきりことを指し示している。これまで「メジャー」とされてきた多くのマンガにとって、ジャンルを指し示す語は、マーケットのセグメントにしか求められてこなかった。ようは、どういう人々の集団がそれを主に享受するか、という統計的な語の使い方である。

だがその方法論も、そろそろ限界に来ているのではないか。よく考えてみれば、映画でもポップ・ミュージックでも、(ある程度のセグメントはあるにせよ)「〜向け」といった限定があらかじめかけられ、その枠を前提にしてのみジャンル全体が語られるということはない。マンガも、そろそろそうした時期に来ているのではないか。「成熟」とはそうしたことだ。だいいち、それらのマンガを楽しく享受しているぼく自身、「少年」でもなければ、すでに「青年」ですらないではないか。

あるマンガ作品をウェブなどで紹介する際に、たとえば「オタク向けの〜」とかいったユーザーのセグメントを説明のため仕方なく用いた経験を持ったひとは多いと思う。
とりわけ「オタク」の場合、それが受け手/語り手の自己イメージに繰り込まれていることが多々あり、それが余計に問題を見えにくくしているのだが、その自意識のありようを問題視するにしても、マンガを論じる/語る際に、その表現そのものではなく、それを享受している人々の主体やありようのほうが先行して語られるという方法の限界を見なければならないだろう。
すでに言説装置として「使えなくなって」きているものがあり、しかしそれ以外に妥当な方法がない場合、人はその「使えない」ものに逆に固執しがちだからだ。


話を佐藤秀峰に戻すと、ぼくはこの作家の一連の作品群を「青年マンガ」的なもののひとつのエンドメンバーだと考えている。少なくとも、そう置くことで見通せるものとして「青年マンガ」というジャンルの広がりをとらえている。そして、もうひとつのエンドに浦沢直樹を置き、もうひとつ、これはまだ誰が適当か考えあぐねているが、佐藤秀峰浦沢直樹―誰かの三成分系で捉えることで、青年マンガ全体はほぼカバーできるのではないか。

いまとりあえず、アイディアメモ的し記しておくと、佐藤秀峰浦沢直樹の系は、ダイアログのコマ割りによる処理の差異という視点からの分析で、かなりクリアに見えるような気がしている。佐藤にはカットバックがあまり見られず、浦沢はカットバックを多用する。佐藤はページあたりのコマ数が少なく、浦沢は多い。

さらに、ここに運動の記述の方法という要素を加え、そこから見えるものを外挿していけば、「少年マンガ」との接点と差異も見えてくるのではないかと考えている。これは逆にいえば、「運動」(キャラに限らず、視点の運動を含む)をどう記述しているかという差異によって、「青年マンガ」「少年マンガ」の分割を定義しなおせないか、という発想である。

これについては、まだいろいろと検討中なのだけれど、こうした視点での分析の必要性、言説としての有効性については、それなりに自信を持っている。少なくとも、こうした形での「青年マンガ」「少年マンガ」の再定義によって、たとえば90年代「少年ジャンプ」の成果や、江川達也の仕事の評価は、よほどくっきりと見えてくるのではないかと考えている。



……というか、「マンガ評論」って本来こういうことをやるのが仕事じゃなかったの?