夏目-竹宮-藤本による「よしながふみ」
先週土曜日の漫画史研究会の模様など。
夏目房之介さん、藤本由香里さんに竹宮惠子さんというスペシャルゲストを加え、よしながふみ作品について論じあうという、たいへんに充実したものだった。すでに夏目さん自身のブログのほか、id:pastoralさんのレポートがあげられている。そちらも参照していただきたい。
http://www.ringolab.com/note/natsume/archives/001629.html#more
id:pastoral:20040531
夏目さんのブログでも触れられているけれど、そもそもは3月にNTT-ICCで行われた「マンガの読み」を調べる実験についてのシンポジウムのあと、初台のソバ屋でよしながふみについて盛り上がったというのが契機となっている。その場で「あれはいいですよ!」とクチを揃えていたメンバーにはぼくも入っていたのだが、今回の研究会では一聴衆として大人しくしていた。
この素晴らしいメンツを前にして、聴き手でいたほうが面白そうだったからってことだが、もうちょっと正直にいえば、よしながふみを分析的に読めば読めるのだけれど、いまはまだ、そういう読みを駆動したくなかったという気持ちもあった。
このへんの心情をいま書こうとして、結構、それが複雑なものだということに気づいた。
一方に、いまはまだ、よしながマンガを読む快楽にただだらしなく浸っていたいという気持ちがあり、他方に、これを分析的に読んだみたら、それはそれでたいへん楽しいだろうという誘惑もある。研究会で竹宮さんや夏目さんからも指摘されていたけれど、よしながふみのマンガには、すれっからしのマンガ読みの解釈したい欲や分析したい欲を誘うものがある。
また技法的にも、一般にメジャーとされる(読みやすい、とされる)マンガの文法からの逸脱ばかりのようにもみえる。研究会には学校のひとと同行したのだが、夏目さんらの分析をききながら「これは学生には『いきなり真似しようとしちゃダメだよ』といわないといけないですね」などといっていたくらいだ。
しかし、少なくともぼくにとって、よしながふみは全く読みにくいとかそういうことはなく、マンガとしては、むしろとても親しみやすく、何度読んでも楽しめる。
いってみれば、マンガ的な「読み」の約束からの逸脱、「反則」ばかりでできているのにも関わらず、しかしきちんとマンガ的な「快楽」は様々なレヴェルで提供してくれる、とても高品質なものとしてあるわけだ。
竹宮さんは、よしながふみのマンガを「見たことのない文法」と呼んでいた。竹宮さんのその驚きは、たとえば状況の説明などを一切、書かずに済ますといったところに向けられていた。具体的には『踊る王子様』(単行本『こどもの体温』所収)のラスト、バレエ・コンテストのTV放送を描くのに、それを誰が見ているのか、また放送されているコンテストの様子はどうなのかを描かず、ただバレエを講評する女性のアップとセリフで語っていくところが例にとられていた。いまの読者は、ここまで「不親切」な演出でも許容するのか、と。そして、よしながふみの作品がとても洗練されていることを認めつつ、「マンガはここまで来てしまったのか、純文学化がそう進んだような道をたどっているのか」という感想を述べられていた。
その感嘆からは、ただその「達成」を喜ぶだけではなく、ある種、一般性を失った場で「表現」のみが先鋭化していったことに由来する寂しさのようなものが感じられた。
さて「不親切」という形容は、ひょっとすると夏目さんの言葉だったかもしれない。一方の夏目さんは、彼の方法の核心であるコマ分析を緻密に行い、『西洋骨董洋菓子店』を鮮やかに解析してみせた。その具体的な手順は夏目さんのブログに当日のレジュメが掲載されているので、そちらを見てもらいたい。
http://www.ringolab.com/note/natsume/archives/001629.html#more
夏目さんがキーワード的に使っていたのは、「オフビート感覚」。コマによる時間分節のリズムが、随所でハズされていたり、ノリタメがあったりして、独特の「間」を形成している。そしてそれが読者に快感を与えていることを指してそう呼んでいる。
夏目さんがそうしたように、実際の見開きを提示して作品を追っていくと、これが実によく構築されたものであることが分かる。ある程度は作者の無意識的な快感原理によるものだろうが、しかし、またある部分はメソッドとして、あるいは形式として抽出できるものとなっている。
たとえば、余計な背景を徹底的に排除し、余白を大きく置くことで絵(夏目さんは一貫して「絵」という言葉を使っていたが、実質的にはこれは「キャラ」のことである)とテキストが強く結びつけられるといったこと、人物の物理的な配置が捨象され、ダイアログのリズムのほうが前面化していること、またひとつのコマ内に描かれる人物の数が、コマを追うごとに的確に変えられ、それが読者の感情移入を誘導する仕掛けになっていること……といった特徴は、上手く抽出すれば一種のテクニックとして敷衍できるだろう。当然のことながら、こういった徴候からは、よしながふみが「属している」ジャンルの特性を知る手がかりも見えてくる筈だ。
もっとも、夏目さんは、この分析を、本来ならば「戦後マンガの特性/少女マンガの特性/よしながふみの作家性」の三者に分節されて行われれるべきものだが、その区分は現状では曖昧なままにしていると、はっきり断っている。さらに、自分はあまりよく知らないので、と慎重に前置きしながら、やおい/ボーイズラブ系同人誌というジャンルで共有されていた話法が、極度に洗練され、一般性を持つまでの強度を得たものではないか? という見解を提示していた。これはぼくも実証抜きでいうのだけれど、直感的にはそうだと思う。また、こうした作業仮説を置くことで、よしながふみから遡行的にやおい/ボーイズ系同人誌や、そこでの表現のあり方をみることは可能だろう。ちなみに、よしながふみは『スラムダンク』で同人活動をしていたという出自を持っている。
その意味では、藤本由香里さんの「読み」は、今回の発表者のうちでもっとも作家やボーイズという「シーン」に寄り添ったものといえるだろう。
藤本さんの発表で、ぼくがもっとも興味深く思ったのは、高河ゆんを対比する例としてあげていたことだ。
彼女は、少女マンガ史におけるよしながふみの位置づけとして、「間接はずし系」という概念と提出する。その意味するところは、「読者が無意識に期待する展開をあっけらかんと裏切っていく感じ」という。その例として高河ゆんがあげられる。具体的には『子どもたちは夜の住人』を示し、そこでの「間接はずし」の徴候を、ヒロイックでシリアスな大状況(生死のかかった戦いといった状況)と、ごく私的な、日常的なリアクションとの混在に求める。それは主に「子どもの」視点による相対化に起因するものとしている。
そして、高河ゆんを「子どもの間接はずし」としたうえで、よしながふみを「大人の間接はずし」と位置づける。
つまり、よしながふみには、意識的に設定されたミスマッチや、思いがけないことが次々に起こりつつ、次の展開への無意識的な期待を裏切る、といったエピソードのレヴェルから、間とリズムによるものまでがあるとし、それを「大人の間接はずし」と呼ぶわけである。
ここで高河ゆんとよしながふみの「対比」ばかりが強調してとらえられそうだが、しかし、ぼくが強く関心を惹かれたのは、この対比の前提として、高河-よしながの連続性が見出されていることだ。ぼくは戦後マンガ史の切断線を1986年に置く見方を取っているが、その徴候として高河ゆんの登場を置くこともできる。高河ゆん以降の同人系の作品群を、あきらかにそれまでとは異質なものと捉える意見はよく聞かれるが、ここで、それ以降のマンガ史を高河ゆん的なものを軸として捉える視点は導入可能だろう。
それは別の話として、さらに藤本さんがよしながふみの最大の特徴であり魅力として強調し、後半のディスカッションで夏目さんと鋭く対立する(かにみえた)のは、「間のコマによる細かい分節」による、「感情の微分化」である。
お手元に『西洋骨董洋菓子店』がある方は、1巻の86ページ・87ページの見開きを見ていただきたい。「千影」という登場人物の、ほとんど構図の変わらないアップが四コマに渡って展開され、その間に彼の回想カットが挿入されている。そして、「千影」の表情が微妙に変わり、次のページをめくると、彼の頬を涙がつたう大ゴマがあらわれる。「千影」の感情の流れが、どう記述されているかということが、ここでの眼目である。
このシーケンスを手がかりのひとつとして、感情の記述という論点で夏目-藤本の議論が行われた。それはとても示唆に富み、ひょっとするとその場でお二人が想定していた以上に射程の深いものになっていたのではないかと思った。念のため付け加えておくと、「千影はどんな気持ちだったのでしょう?」というような解釈をめぐる議論が行われたのではない。マンガについての議論には、とかくこうした素朴な論点がひょいと顔を出しがちなのだが、どうか、そこは早読みをしないでほしい。
藤本さんはこのように微分されて記述された「感情」を、たいへんストレートに読者に伝えるものとし、その意味ではまったく「不親切」ではないとする。また、一般の少女マンガに比しても、「感情」はわかりやすく描かれていると考えている。
一方の夏目さんは、よしながふみは「感情」を、記号化せず(明示的に言語化せず)、読者の解釈に委ねるような描き方をしている。そこで感情が類型的に表現されるのではなく、解釈の余地を大きく与えることで読者の感情移入を引き込むようなコマ演出がされている。
この藤本-夏目の議論を整理すると、以下のようになる。
この整理は、私の解釈を多分に含む。夏目、藤本の両氏からは異論があるかもしれないのだが、少なくとも私の位置からは、このような対立として見えていたということである。
【夏目】
「感情の記述」において、よしながマンガには多義性がある。
それは読者の個々の「読み」によって多様に解釈される。
そのことは、漫符などを含めた記号と、記述される「感情」が一意的に結びつけられていないことなどから、形式的なレヴェルで指し示すことができる。ここで、夏目が、ひとによって様々な言葉によって記述されるであろう「感情群」として、作中で記述されているものをとらえていることが見てとれる。それを「群」としてとらえるには、明確な要素が前提として分節されていなければならない。
その要素を夏目は、「かなしい」とか「うれしい」とかいった明示的な言語で分節されるものに求めている。【藤本】
表現上の形式はどうあれ、よしながマンガでは、その形式を用いて記述される「感情」は、強く共有される。その意味において多義性はむしろ乏しい。
ここで、藤本は、共有されるとする「感情」の内実が、言語でどう分節されるかを問うていない。それは藤本にとって自明視されているようにもみえるし、また言語化が困難(または不可能)であるが、しかし確かに存在するものとしてとらえられているようにも思える。
つまり、記述されているのは、名指すことのできない「感情そのもの」であり、それが明示的な言語で分節される必要もあまりないという前提が想像される。
さらに、藤本さんは、こうした「感情の記述」とその共有というセンスにおいて、よしながふみが正しく「少女マンガ的」であることを強調する。
そこで、この議論は一見すると、夏目さんのコマなどの表現形式に寄った論理展開と、藤本さんの、そこに何が描かれ、何が読者に共有されているかを強調する、主題論的な論の対立にみえる。
しかし、ぼくがこの議論を「面白い」と思ったのは、これが「感情の記述」をめぐるものであることによる。そして、ぼくにはむしろ、藤本さんのほうがより表現の形式によった議論を展開しているように思われた。ただ、その「形式」のレヴェルは、夏目さんが言及したものとは異なっている。
具体的にはこういうことだ。先の『西洋骨董洋菓子店』を例にとれば、微妙な表情の変化を連続したコマで見せられたとき、そして、そこに至るエピソードがじゅうぶんに頭に入っているとき、読者は登場人物(この場合は「千影」)の心情を想像できる。
ではそれはどのように可能となっているのかという問いを立ててみてみると、藤本さんがいうほどに(そして、実際に彼女の「読み」にとってはそうだったように)、強力に感情が媒介されたことは、それが藤本さんや、藤本さんと同じような「読み」を行った読者が、そこにある「形式」をじゅうぶんに受け入れているということになる。こういう言い方をすると無用の反発を買うかもしれないが、そこで「感情」の内実を一種、ブラック・ボックスとしたまま作者-読者間の緊密な読みがかくも成立しているということは、これは「形式」の力ゆえのことではないのか。ぼくには、藤本さんのいう「少女マンガ」とは、そのような「形式」、もっといえば制度のように思える。それが「透明な」ものとされているという意味でもそうだろう。
今回の議論には、「感情」の内実をどうとらえるかという、より一般的な問題が絡んでいる。マンガに限らず、多くの表現が媒介するものが広い意味での「感情」である以上、それはついてまわる。また、普通に考えて「感情」の中味をひとことで言いあらわす言葉は存在しない。「うれしい」とは何か? 「かなしい」とはなにか? という問いに、これらの感情が引き起こされる状況を説明することなしに答えることは不可能だ。さらに、実際に実感される「感情」にはひどく個人差がある。極端な例としてアレキシサイミア(失感情言語症)という疾患があるが、これは、感情と言語の結びつきが切れてしまう病とされている。病者は、たとえば事故に遭ったとき、「どんな気持ちがしましたか?」という問いの意味すらわからないのだという。
ここまで極端な例を取らずとも、「この私」の感情と、他の誰かのそれが同じである保証はどこにもない。どうやら、ほんとうに極まったシチュエーションでは、ひとはだいたい同じ反応を示す(肉親の死とか、そういった人生でそう何度も起こらないクラスのときは、だ)ようだが、それにしれも確かめることはほぼ不可能だ。しかし、おそらく、皆、だいたい似たような「感情」を持っているだろうという、曖昧で不確定ながら、しかし、無意識的には確固とした信念を持って、ひとは人間関係を構築する。感情を名指し、その存在を共有する単語がありながら、しかし一方でその内実を記述する言葉がないのは、この不確定さと確固さの矛盾に由来するものだろう。
であれば、ひとが表現に向かい、そこで「感情」を記述するのに、それを明示的に名指すのではなく、ある時間的な連続として表現されるレヴェルにその「記述」を負わすのは必然といえる。マンガでいえばコマ演出であり、キャラの描写である。
これは技法的には「セリフやモノローグでなんでも説明するんじゃなくて、キャラの動きで見せなさい」といったセオリーで言い表されるものであるのだが、逆にいえば、それは「マンガ」という表現の形式の側が、実は感情のキャリアとして機能していることを意味している。いや、もっとスローガン的に、感情を媒介するのはコマ割りである、といってもいいかもしれない。
話をよしながふみに戻そう。
ぼくは、昨年10月に出た「ユリイカ 特集=マンガはここにある・作家ファイル45」ISBN:4791701127 でよしながふみを取り上げているが、そこでよしながふみの中心的な主題は、多様な関係性の祝福にあるとした。その解釈は現在でも変わっていない。
家族の愛、友情、同性間、異性間の愛情、ちょっとしたいたわり……など、日常のなかにある多彩な関係性をよしながふみはきめ細かく描く。しかし、これら多様な関係性を記述するには、私たちの語彙はひどく乏しい。「はてな」でひとの日記をみていてもそう思うのだけれど、身近な、親しい誰かをどう呼ぶのかにも、皆、なんとなく困っていることが多いように思う。友人でも違うし、知人じゃ遠いとか。そもそも昔の中高生の定番テーマ「愛情と友情は両立すると思いますか」というあれにしたって、実は関係性の多様さと、それを指し示す語彙の乏しさに由来するのだと思う。
関係性の多様さとは、他人を求める感情の多様さに他ならない。日常とともにある「親密さ」としかいいようのないもののうちに存在する、多様さなのだ。
つまり、よしながふみは、我々の「親密さ」を、もっといえば他人をお互いに求め合う感情そのものを、まるごと祝福しようとしているようにみえる。だからぼくは、よしながふみの作品が好きなのだろう。