「ヤマなし、オチなし」は、「脳の発達上の欠陥」? 精神科医はマンガから何を読みとり、何を「読まなかった」か。


『隠蔽された障害 マンガ家・山田花子と非言語性LD』(石川元 岩波書店をようやく読了しました。この本が遺族の訴えで裁判となり*1、絶版に至ったということを書いた(http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20031017#p2)ら、ずいぶんとあちこちからリンクされました。意外にこのことは知られていなかったようです。そこで、ウェブでこの話題に触れたぼくにもなんとなく責任が生じてしまったような気がしています。本書に対しては、いいたいことはたくさんあります。率直にいって、遺族とのトラブルといった事情は別にしても、作品に現れた<根拠>をもとに山田花子の病像を類推する論理展開の粗雑さにはあきれました。著者は「マンガ」と「絵画」との区別すらついていない。たとえば、マンガではごく普通に行われる「省略」であっても、後に分裂症を発症する/非言語性LDの兆候である「欠落」としてカウントされてしまっています。また、著者はマンガのコマの内部には、必ずしもパースペクティヴが存在せず、複数の視点から見た図像が極めて普通に描かれるという事実を見落としています。そのため、山田花子の作品に見られるパースの狂いもまた、分裂症へと向かう兆候とされています。これは、単に著者が「マンガという表現を知らない」という批判に留まるものではありません。むしろ著者の人間観、疾患をはじめとする対象に向かう際の方法論的な態度への批判です。なお、著者・石川元氏は、香川医科大学教授をつとめる精神科医で、描画による病像の解釈など、ユニークな理論に基づく治療法を確立している、と著者紹介にはあります。

この本に対してマンガの側、マンガ研究の側からきちんとした批判がされたという話は寡聞にして聞いていません。それどころか、石川元氏は日本マンガ学会総会関連イベント(2002/06/08)で、本書をもとにした講演を行っています。石川氏を呼んだのはマンガ学会理事である呉智英氏。石川氏と呉氏は高校の先輩後輩の間柄なのだそうです。ぼくはその講演は聴いていないのですが、学会のニューズレター(2002/08)には、横浜国立大学助教授・ジャクリーヌ・ベルント氏からの疑問が記されています。まずはそれを引用してみることにします。

マンガという表現メディアについて、エネルギーを経済的・合理的に採用し、物事の本質を抽出して絵に表すという過程が、脳の健康状態と関係していると見なされていた。だが、西洋的遠近法と写実による表現こそ健康な精神を現わす、という見方には疑問も生じた。記号的絵や棒人間、さらに、画面内の空間的関係の不規定性など、精神科医から見る症状は、マンガ表現論の視点からは、正反対の印象、つまり獲得した技法を捨てた上、実験的想像力を発揮する絵という印象をもたらしうるからである。また、フロアーからは、コマ割りや時の流れを根本的特徴とし、多様なスタイルをもつマンガを、直ちに精神治療法における描画テストと関連づけられるのだろうかという指摘があった。さらに、精神病の患者が、他の描画スタイルと比べてマンガをどれほど選ぶか、また、それがなぜなのだろうかといった質問もありうるが、いずれも残されたままになった。
(ジャクリーヌ・ベルント 日本マンガ学会ニューズレター vol.2 2002.8 強調は引用者による)  

ベルント氏の批判は、およそ控えめな調子のものですが、核心をつくものとなっています。一方の石川氏は、疑問にじゅうぶんに答えてはいないようです。石川氏は、山田花子の日記などに見られる生活上の不具合、対人関係のまずさなどの問題行動と、マンガに見られる上記のような兆候を単に並列し、山田花子の非言語性LD=「脳のあり方としての、発達上の欠陥」(234ページ)の証拠として提示しています。ここには、いくつかの短絡があり、一見、精緻に見える分析は、たとえば山田花子のマンガが、実はコマ割りのレベルではたいへんかっちりと構築されたものであることを完全に見落としています。じじつ、石川氏がさまざまな「障害の徴候」を見出した作品、『忘れもの』からは、コマ割りのレベルでは、むしろメジャー誌的なセオリーをきちんと踏襲していることが読みとれます。具体的には「見開きの左上に決めコマを持ってくる」といったセオリーです。また石川氏は、この作品を「ヤマもオチもない」(200ページ)とし、山田花子の問題行動、たとえば喫茶店のバイトで客席番号が覚えられないといったことと同列に扱い、「非言語性LD」の徴候としています。しかし『忘れもの』は、主人公の心情の揺れだけで全体をドライブし、読ませることに成功した作品ともいえるのです。そこには、ヤマもあればオチもある。むしろ「技巧的」ということすら可能なのです。
こうした石川氏の「読み」は、どのような起源を持つのでしょうか。どうも、単にマンガに対するリテラシーの欠落にのみ帰せられるものではなく、「精神科医」という地位に起因するものがあるものがあるようなのです。つまり、彼は「心(あるいは脳)」の専門家である。ゆえに「専門」の見地から、対象を分析することが可能である(あるいはすべきである)という前提が存在し、そうであるがために、他の分野や、世間一般にある、多様な複数の「常識」の存在を見落としていたのではないかということです。これは単純な話で、「正常/異常」の区分をつけるという前提があまりに自明なものとなっていたがために、自分の依拠する判断基準に対する検討が一切、なされなかったのではないかということです。先に記した、山田花子作品に対する私なりの解釈による石川氏への批判は、いってみれば「マンガ表現論」という「専門」の立場からなされたものです。そのような「専門」が存在することを、石川氏は想像していなかったのかもしれない。こうしたことは、石川氏に限った話ではないようです。

私は、経験豊富な医師の外来診察に時おり同席させてもらっていた。ある時、分裂病で入院している妻の面会に訪れた男性が、自分にも神経症があるとして、外来で診察を受けた。学校の教師をしていた三十代のその男性は、医師の問診に対して、「学級経営がうまくいかない」と訴えた。短い診察を終え、処方を書いてその患者を送り出した医師は、いつも通り私に講義をしてくれた。今の患者は、かつて軽い初発をして現在は寛解状態にある分裂病であろう。表情が硬いことに加えて、”学級経営”などという奇妙な”言語新作”をしたことがその証拠である。その説明を聞いた私は、しろうとには見えない病変をレントゲン・フィルムから読みとるように、経験の長い医師は、心の隠された本質も、わずかな手がかりからみごとに探り出すものであると、その慧眼に感服した。無知な私が、”学級経営”という専門用語の存在を知ったのは、それから数年後のことである。
(「精神科病院での経験」 笠原敏雄 「春秋」1999.8-9 春秋社 強調は引用者による)

「心の隠された本質を、わずかな手がかりからみごとに探り出す」こととは、まさに本書で石川氏が指向したことです。「学級経営」なる単語*2を知らなかったベテラン精神科医と同様の問題が、石川氏にもあったのではないでしょうか。であれば、問題はもっと構造的な、根の深いものである筈です。

*1:裁判には至っていないことが後にわかりました。訂正します

*2:試みにGoogle検索をかけたら22000件のヒットがあった。http://www.google.co.jp/search?q=%8Aw%8B%89%8Co%89c&ie=Shift_JIS&hl=ja&lr=