買ってきました、竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』



手塚治虫=ストーリーマンガの起源 (講談社選書メチエ)

手塚治虫=ストーリーマンガの起源 (講談社選書メチエ)

まずは、紙屋研究所さんにによるレビューをお読みください。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/storymanga.html


タイトルからも推察されるように、従来からいわれてきた、ステレオタイプなマンガ史観をつづった本のようです。ぼくはこれから読むので、ぼく自身の感想は控えておきますが、紙屋研究所さんがいわれるとおり、帯の文句がスゴイ







……だ、そうです。
しかしてその実態は、長谷邦夫さんのはてダによると、以下のようなもののようです。


http://d.hatena.ne.jp/nagatani/20060214

少し読んでみましたが、とても帯コピーにある
「本格漫画評論」とは言いがたい「雑論」のようです。
すべて、今までどこかで読んだデータ的・回顧的な
<話題>のツギハギで語られています。
そのくせに新しいマンガ表現論が語ってきた
考え方に目が届いていません。


手塚治虫楽天・一平ら以降のあらゆる
有力マンガ家に、幼年時代から影響を受け
ストーリーマンガの創始者になった!
〜という、実に珍妙な説明に終始している
ように見えます。



http://d.hatena.ne.jp/nagatani/20060215

<さて、手塚はストーリーマンガの創始者なのだから、
一平に影響を受けた思われがちだが、実は、楽天の影響の
方が強い。>〜とあった後に、

<手塚はストーリーマンガの開拓者だから、その意味では
一平の後継者である。>〜とあり、その後で、

<紙芝居作者との切磋琢磨が、手塚をストーリ−マンガの
創始者たらしめたと言ってよいだろう。>とも書く。

さらに<ストーリ−マンガの創始者手塚治虫とするならば、
ストーリーマンガは「まず名場面ありき」の物語”文学”なの
である。歌舞伎に近いといってもよい。>と、書いてしまう。

↑このての表現が、まだまだあるのだ。

ぼくは論文世界をよくは知らないが、どのような論文を平易に
書き直すと、このような雑な表現になってしまうのだろうか。

非常に理解に苦しむ。

◎どなたか、この何でもアリ状態を、解説し統一見解を
出していただきたいのである。

この本の担当編集者の方は、どう解釈されて、入稿決定を
されたのであろうか。知りたいものである。



どうも、多分にマンガと学問の双方をナメた本のようです
著者である竹内一郎氏は、「さいふうめい」名義でマンガ原作もされ、マンガ家・星野泰視さんと組んで『哲也』というヒットをとばしています。現在は同じコンビで第二作である『少年無宿シンクロウ』をはじめられています。
新連載の初回をみましたが、なかなかいい感じの滑り出しでした。


……ていうかですね、竹内氏と組んでいる星野さんって、ぼくが浦沢直樹氏のところのアシをしていた時分のチーフなんですわ。
だから何だって話もあるんですけど。
星野さん、去年の手塚治虫文化賞のパーティで会ったとき「本が出たら知らせてよ」といって携帯電話の番号だけ教えてくれたんですが、ほら、メジャーで連載している忙しいマンガ家さんの携帯にいきなり電話をするのも何かな、とつい遠慮してそのままになってたんですわ。


えーっと、何がいいたいかというとですね。
星野さんに献本しておけば、拙著の話くらいは竹内氏のところに届いたのかもな……という話です。


紙屋研究所さんのレビューでは、こんなことが書かれてます。

大塚や伊藤については完璧にネグレクト。
 ここまで無言及だといっそすがすがしい(大塚の『ジャパニメーションはなぜ敗れるか』にも伊藤への言及はないが、同時期だったということは差し引いてもよいし、新書であり、かつ「本格漫画評論」と銘打たなかったことからその責は免れてもよさそうである)。
 「ひらかれたマンガ表現論へ」というサブタイトルの仕事をした伊藤は「ほとんどいない」ものとされたそうですよ(笑)
 『人は見た目が9割』を書くほどの、いかにも戦術的巧者でありそうな竹内一郎のことだから、知らなかったとは思えない。意識的に無視したのだろう。「ヴァーカ、そんなの取るにたらねーよ」



まあ、竹内氏はこっちの本の存在を知ってたんじゃないかとは思います。
だけれど、意識的に無視というよりは、単に先行研究にあたるのは面倒くさいとか、なんか読むのたいへんそうとか、そういう感じのことだったんじゃないでしょうか。
なんだか忙しそうな方だし。


ただ、竹内氏が彼個人の野望として、この国の芸術行政のなかに政治的に食い込んでいこうと考えているのであれば、戦略的に無視した可能性はありですね。
ようは、あまり教養も思慮もない行政の担当者や、政治家に対して口当たりのよい「日本文化礼賛論」を提供するという、いわば確信犯であれば、ということです。


ぼくだと、もとより国や行政に対して、まだしも信頼を捨ててはいませんから、それでもナメたものを提示しようという気にはなれません。そんな恥知らずなまねはできない、という言い方もできるでしょう。
考えうる限りのことを考え、自身のなしうる限りの最上のものを提供すれば、何らかのリターンはあるだろうと考えますし、また、そこで手を抜いたら、短期的にはイイ目にあえても、いつかバケの皮ははがれるぞ、と。
常々そう考えております。


マンガ原作者の「さいふうめい」さんも、よもや「少年マガジン」の読者をナメてかかってはおられないと推察いたしますが、多分にそれと同じ心理だと思います。