美術手帖「マンガは芸術<アート>か? 進化するマンガ表現のゆくえ」



美術手帖 2006年 02月号

美術手帖 2006年 02月号



昨日から店頭に並んでいるようです。
先日からここでも記しているように、ぼくは椹木野衣さんとの対談スーパーフラット以後の美術とマンガ』で参加しています。拙著『テヅカ・イズ・デッド』で提出した「フレームの不確定性」という概念を軸に、マンガと美術の差異と接点について語っています。
まだアマゾンに表紙の画像が入っていないんですが、表紙には村田蓮爾のイラストを使用。前回、1999年の同誌のマンガ特集の表紙が『天才バカボン』だったことを考えると、隔世の感があります。


そう感じたことには、説明が必要でしょう。
もちろん赤塚不二夫は偉大だし、作品は現在でも古びてはいません。しかし、この選択は、ある世代以上のマンガ読書体験に根ざした、「郷愁」を帯びたものと受け取られます。それは、2002年に博報堂「広告」誌が行ったマンガ特集の表紙がやはりバカボンであったことともつながります。こちらの特集のコンセプトは、「元気がなくなったマンガを元気づける」というものでした。いずれにせよ、そこにあるのは、バカボンに象徴されるような「過去」のマンガには活力があり、語るべきものもあり、現在のマンガにはそれが欠けている、不足している、という気分だと思います。
「マンガの現在」が不可視となり、見えないものだから「つまらなくなった」という例の気分ですね。


一方、村田蓮爾が本当に「現在」を背負うアイコンとして適当かどうかは意見の分かれるところでしょうが(あるいは、これを「マンガ」の文脈で扱うことが適当かどうか、といった議論もあるとは思います)、今回の特集は、目次を見る限り、少なくともマンガの「現在」に「美術」の文脈からどうにか迫ってみようという意欲はあるものと思いました。
その姿勢は、従来からの書き手ではなく、できるだけ「若手」(といってもたいがい30代なんですが)の書き手に原稿を依頼しているところからも伺えます。ベテランといえる人は、小野耕世氏くらいではないでしょうか。


「美術」と「マンガ」という対比においては、表現上の差異や接点よりも、制度的な扱われ方をめぐる議論が先行する嫌いがあります。もっともそれは、日本において「美術」が美術館や美術展などの制度の整備を通して自らを権威づけていった過程がある以上、避けられないことではあるんですが、この特集も、目次をぱっと見た限りでは、そういった制度的な問題に引き寄せられた感があります。おそらくはこの問題系にどう答えるか? あるいは抵抗するか? が個々の論者に問われている課題だと思います。


というわけで、これから読みます。