竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』、疑惑の論文それ自体への言及

宮本大人のミヤモメモ
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うちのブログをお読みの方は、かなりの割合ですでにリンク先の宮本君のブログをお読みだと思いますが、うちの更新はチェックしていても宮本君のほうはしていない方もおられると思うので、触れておきます。


などともってまわった物言いをしているのも、問題の本のもととなった、この「博士論文」それ自体を一部とはいえはじめて読み、言葉を失ったからです。宮本君から話はきいていたけれど、ここまでひどいとは……。いや、しかし、ホント、すげえな。とにかく、読んでみてください。宮本君もよくここまで丁寧に扱ったものです。それほど、ひとを呆れさせ、まともに取り合う気をなくさせる代物です。


とはいえ、宮本君の文中にもぼくの名前が出ているので、萎え萎えになる気持ちをどうにかしてひとつだけ言及しておこうと思います。竹内一郎氏が、現在の日本のマンガが「映画的である」と同時に、同じ程度には「映画的ではない」という表現の特性にひっかかり、そしてこのやっかいさを前に「マンガ表現にとって映画的とはどういうことか」という議論を引き受けることなく、適当に放り投げたのだということについてです*1


ミヤモメモでは、伊藤剛氏が『テヅカ・イズ・デッド』の中で、異常なまでの誠実さでその論理をたどっている同一化技法をめぐる議論(竹内オサム氏は実に20年以上にわたってこの問題に拘泥しているわけです)」と書かれているのですが、問題の核心は、まさに「マンガ表現にとって映画的とはどういうことか」という議論に収斂します。
この問題については、竹内オサム氏をはじめ、四方田犬彦氏なども言及している点なのですが、拙著を書くにあたっては、映画論の達成を参照するためにも、またマンガの「映画的ではない」部分をあぶりだすためにも、徹底してこの点について考える必要があったと思っています。
宮本君は「異常なまでの誠実さ」という、少し奇妙な表現でそれを評してくれていますが、その評価の言葉がこうした奇妙さを帯びざるを得ないほど、やっかいな問題だったわけです。それは、ぼくが批判的検討の対象とした竹内オサム氏の言説の混迷にも表れています。詳しくは拙著『テヅカ・イズ・デッド』第四章「マンガのリアリティ」をお読みいただくとして、ここでは繰り返しませんが、その検討の過程で、どうにかこの「やっかいさ」「とらえにくさ」を乗りこえてマンガ表現をとらえうる概念として、「フレームの不確定性」に行き着いたことは記しておこうと思います。


ここでこういうことを言い出すのは、まさにエッセイ的な「批判」というか、それこそ竹内一郎氏を批判するために印象操作をしているといった、あまり本質的ではない謗りを呼び込むかもしれませんし、みっともないことを覚悟のうえでいいますが、この「フレームの不確定性」という概念を見出す、具体的にはこの単語を思いつくまでの塗炭の苦しみは、やはり記しておきたい。
そして、自分から言うのもなんですが、この概念の効用は相当にあると思っています。少なくとも、一般に「映画的」とされる徴候を多く含む一群のマンガだけでなく、「映画的」という見方ではとらえることの難しい、たとえば少女マンガなどの表現を同時に射程に収めることができたと考えています。その程度には、画期的なものだったと思うし、それだけそこにいたるまでの、トンネルを素手で掘るような過程の苦しみは、やはり言っておきたいなと思います。本当に、人情として、言っておきたいです。


もう少しぶっちゃけた調子で言えば、あのー、オレが半年もうんうん唸って病状を悪くしてまでやってきたあれは何だったんすか、比喩ではなくまじでゲロ吐きながら書いてたんですけど、ということなんですが、それでも「でもやるんだよ」で続けてきたのは、どうにも光明の見えないものでありながら、でもここを掘り下げて考え抜いていけば、必ず全体がクリアに見通せる視点があるはずだ、と信じてきたからなんですね。
これまでも竹内オサム氏はほかの先人の方々が、それぞれに考えてきながら、しかしそこから前に進めないもどかしさの感じられる、そういう泥沼のようなやっかいさを持った問題系に取り組んだ以上、やるべきだろうと考えたのです。
まがりなりにもこれができたのは、何もぼくが優秀だとかそういうことでは決してなく、三分の一は意地だったし、三分の一はたまたまそれを自分の仕事になしうる環境にぼくがあったという運だろうし、残りの三分の一は、なんだかよくわからない業みたいなものでしょう。
つまり、必ずしも「フレームの不確定性」という単語は用いなくとも、真剣に考えていけば、近しい意味内容のところには、他の誰であれ到達したのではないかと思うんですね。また、そうした普遍性を持つという感触を持てない概念ならば、出さなくてもよいと思っていました。


とまあ、己の脳髄という、あまり使い勝手のよくない、大したスペックでもないものをどうにか酷使して、やってきたわけです。もっと優秀なひとの頭を使えればラクだったんですが、そんなことは原理的に不可能なわけで、仕方なく、これもなんかの因果だよな、と思いつつ進めていたわけです。


というわけで、竹内一郎論文を一部抜粋ながら読んだぼくの感想は、「逃げてんじゃねえよ」という一言につきます。


「マンガ」という、多くの人々が身を削りながら続けている営みに対し、その営みの蓄積の巨大さに畏怖するのであれば、人は真摯にならざるを得ないと思います。少なくともぼくは、身のすくむようなその大きさの前に、真剣にものを考え続けるという方法以外、取れなかった。収入など経済的なことを考えれば馬鹿げていたかもしれないし、それだけ自分だけでなく周囲にも犠牲というほどではないにせよ負担を強いるものでもあったのですが、しかし、きれいごとではなく、本当に、こうせざるを得なかったし、また自分の将来を見据えても、出来ることはこれしかありませんでした。


一方、世渡りとか経済的な成功とかいう点では、竹内一郎氏は見事です。
すばらしい経済効率です。氏の才覚は素直に認めますし、いいよなーお金持ってて、とか思いますよ。
たぶんご自身もいわれるように、運にも恵まれた方なんでしょう。
でも、ぼくが彼に「逃げてんじゃねえよ、卑怯者」という罵声を浴びせることもまた、許されると思います。学者とか批評家ってのは、それぞれ「ものを考える」という行為をもって、各々の場所で戦ってるんじゃないのかよ、と思います。「戦う」という言い方もいやだし好みではないんですが、しかし、ぼくには「学」に対するそういう信頼があった。まあぼくはそれなりにしつこい性格なので、そう簡単にこの「信頼」は失せないんですが、ただ、本当に、ひとこと「竹内さん、逃げたでしょ」とは言わせていただく。そして、困難を目の前にケツまくって逃げたヘタレをうっかり評価してしまった関係者の失態を、ぼくは決して忘れない。人間には間違いはつきものだし、今回の件には複雑な事情がからんでいますから、この失敗をもってその方々を糾弾することはせずにおきますが、しかし、もし「学者」や「編集者」や「選考委員」としての良心があるのだったら、恥じてください、というくらいは言ってもいいでしょう。




以上、あえて最低限の推敲でアップしました。
あとで消すかもしれません。お読みくださり、本当にありがとうございました。

*1:竹内一郎本の「映画的手法」分析のまずさについては、鷲谷花さんのブログ(ハナログid:hanak53:20061110:p1)などを参照ください。