よつばは、無敵だ。そして、オレは、無力だ。

よつばと!』レビュー。ミクシィに書いたものの再掲。

よつばと!(3) (電撃コミックス)

よつばと!(3) (電撃コミックス)



すばらしいの一言につきる。
私はこの三巻を読み、二度、三度と涙を落としそうになった。嗚咽が漏れそうになった。
そして、その意味を考えている。


あずまんが大王』を経た作家が到達したこの場所を、マンガ表現史の現時点における臨界点ということに、私は躊躇しない。


コマごとにきちんと視点は設定され、かつコマ運びにも破綻はない。コマ構造はむしろ禁欲的と思えるほど、変格なものを排除している。ここで重要なことは、映画的な切り返しが多用されながら、けっして主人公である幼子「よつば」の視点から見た絵だけは描かれないということだ。


このマンガの主題は、見るものすべてが新しい発見である無垢な幼児の日常を描くことにある。よつばは快活で、物怖じをしない。周囲の大人たちは彼女を暖かく、かつゆったりと見守っている。よつばはとても健やかに育ち、まぶしいほどの健全さで、みなに愛されている。
そして丁寧な線で描かれた世界は、よつばという無垢な幼子によって祝福されているかのようだ。より正確にはそれは「祝福しなおされている」のだ。


読者である私たちは、その彼女をただ「眺める」。大人たちの肩越しに、彼女の頭上、はるか上から。私たちは無垢な幼子ではすでになく、かつ彼女と「同一化」することをやんわりと(コマ割りという、「透明な」装置によって)拒否される。許されるのは、自らの記憶を遡行し、自分の幼児期を思い出すことだけだ。


かくして、我々はここで、自らもまたよつばのように「祝福されていた」ことを思い出させられる。裏を返せば、その記憶―そんなものは最初からなかったのかもしれない―が失われていたという事実に直面させられる。だから、この美しい作品は、こんなに切なく胸を打つのではないか。このマンガは、実は「喪失」の物語ではないのか。


二巻で、よつばの養父・小岩井は「よつばは、無敵だ」といった。降り出した夕立のなか、はしゃぎながら雨にうたれるよつばを見てのセリフだ。
私はどうしても、この三十男の言葉にこう付け加えたくなる。


「よつばは、無敵だ。そして、オレは、無力だ」