ブラック・ジャック・リミキシーズ、業界雑感



昨今の秋田書店、「ブラック・ジャック」リミックス大会について少々、思うところあり。

今号の「ヤングチャンピオン」、井荻寿一の筆によるものはよかった。手塚絵のエロさを現在の絵にモディファイした感じが快い。適度に変格なコマ割りも、70年代手塚のテイストをしっかり踏襲しながら、やはり「いま」のものとなっている。このへん実によく「マンガがわかってる」感じがする。エピソードも同様。いかにもオリジナルのB・Jにありそうだがない、しかし複数のエピソードから持ってきた断片のサンプリングをやっている。そのあたりの呼吸というか、さじ加減が心憎いと思った。リミックスとして、なかなかの佳品でしょう。



対して「週刊少年チャンピオン」の山本賢治版。


これは……どうしちゃったんでしょうね。
山本賢治はけっして悪い作家ではないと思ったのだが。であれば、編集のミスリードか。

エピソードは『魔王大尉』。基本的なプロットはエンディングの一部を除いてほぼオリジナルと同じ。セリフもかなり共通している。
しかし、ブラック・ジャックのキャラが決定的に違い、ただの露悪的なヤツになっている。さらに、余韻を含ませた「間」がことごとく失われている。「間」とは、いうまでもなくコマ構成と構図の組みあわせの妙によって生まれる。しかし、そうした時間処理のテクニカルな味わいはなく、ただ、画面に事物が並べられているだけという、平板な印象を持たせるものになっている。そのため、律儀に踏襲されたオリジナルのセリフ回しも、「ただ、なぞっているだけ」という印象にまで堕ちてしまう。

こうした点が、編集者によるオーヴァープロデュースを疑わせる。ウチはメジャー少年誌なんだから、どのページにもキャッチーなコマがたくさん入ってないと、読者は読んでくれませんよ先生、とかなんとか、いらんことを言ったんじゃないか……などと勝手に考えてしまうのだ。あるいは、編集者がそういったことを直接言わないまでも、そのような強迫観念が暗黙のうちにあるとか?


いずれにしても、山本版ブラック・ジャックの場合、すでに「マンガ」という表現の持つ力を信じられなくなった結果のような気がしてならない。いいかえれば、商品の商品としてのスペックが信じられず、パッケージングだけが先行していないか? という疑念がある。

売れるものを作ろうとするのに、すでに知名度のあるものを持ってくるか、萌えキャラかという、マンガ(=商品)そのものの力よりも、企画書一枚で判断できるものが先行しているのではないか。実は秋田書店の内情をチラっと知っているだけに、余計に書きにくいところがあるのだけれど、どうも、そういう風潮はあるらしい。

このことは、裏を返せば、企画者でありプロデューサーである編集者が、昨今のマンガ環境の変化に対して、「もう何をしたらいいか分からない」と、自信を失いつつあることのあらわれのような気がしてならない。とくに、マンガ世代を自負し、マンガとともに人生を送ったひとにその傾向は強いように思える。
なんでも過去の事例や経験と比較してでないと判断できない。「いま、ここ」のマンガは読んでいないしチェックもしない。したところでそれは「つまらなくなった/死んだ/終わった」ものでしかなく、だから読む必要もなければチェックしても仕方がない。そうした「言い訳」が先に立っているんじゃないだろうか。


こうしたことは、いずれ「予想」である。さほど強固な根拠に基づいていっているわけではない。ただ、ぼくのそれほど広くない交際範囲でも、これだけの空気は感じられる。



こうした空気のなか、『鋼の錬金術師』は、たとえ100万部を売っても「マニアックなマンガ」といわれてしまう*1。なぜか。ファンタジーだから。掲載誌が「少年ガンガン」という、自分たちにとって既知の文脈にない媒体だから。
昨年の話ではあるが、ある大手出版社編集OB氏とエニックス系の話をしたところ、「今日は面白い話がきけた。いまウチのデスクや編集長クラスは、たぶんエニックスなんかまるでチェックしてないよ」といわれた。そういえば、数年前、やはり大手のデスククラスが桜玉吉を知らなかったという話も聞いた。


マンガがこれだけ巨大になっている以上、全てをチェックするのは不可能だ。だから「知らない」ことを批判しているのではない。そうではなく、自分の守備範囲を勝手に設定して、他のジャンル、他のメディアのものを自分とは「無関係」と決め込んでしまう態度はどうなんだ、といっている。



もしいま、マンガに危機が忍び寄ろうとしているとしたら、それはマンガの進展とともに歳を取ってきた団塊の世代から、いま四十代前半の関係者に潜む「成功体験」の記憶に由来するものだろう。彼らの多くは、その追憶から一歩も出られないようにみえる。「追憶」とは、現状に対する否認であり、無意識裏の前例主義である。またその「追憶」でしかない意識のなかに、自分たちはカウンターであり、革新的なことをやってきたという自負があるだけ、余計にタチが悪い。
90年代も後半になって少年マンガを語るのに、「空き地の原っぱのような風景はもうない」と嘆いてみせた論者などは、そろそろ恥を知ったほうがいい。

マンガは、あんたらのノスタルジーのためにあるんじゃないんだぜ。




*1:実際にあるメジャー週刊誌に紹介記事をプレゼンした際、「ウチはそういうマニアックなマンガは取り上げられません」といわれたことがある。