すごい久しぶりにテレックスの "LOOKING FOR SAINT TROPEZ" を聴く。


1979年リリースのベルギー産テクノ・ポップ。オリジナル盤リリース当時、各国のプレスは「ベルギーのクラフトワーク」といって紹介したとCDのライナーにはある。CDは1994年リリースの日本盤。アナログ・シンセを使い、ヴォコーダーで唄い、すっとぼけたポップスを軽快に奏でる……という、ある意味でクラフトワークよりも徹底しているひとたちだ。クラフトワークが、20世紀のモダニズムの美と歴史性を抱えているのに対して、そういったものの重さを微塵も感じさせない、「ポップ」なのである。


だからこそ、80年代なかごろの日本では「なかったこと」にされたのかな、と思う。徹底してたから。

いまの若いひとには信じられないことかもしれないが、80年代前半にYMOを中心に一世を風靡した「テクノ・ポップ」は、一方で脈々と続きながらも85年ごろにはすっかり日陰の存在とされてしまっていた。そのころの音楽業界では「YMOはなかったことにしましょう」といわれていたという話まである。
シンセなどの機材の急速な進歩と、それに伴う歌謡曲の作り方の急激な変化などが、こうしたテクノ・パージを生んだのだろうが、たとえばTVの「イカ天」などは、そうした一連のバンド回帰のあらわれとしてとらえることもできるだろう。これまたいまから考えると信じがたいが、あの番組では、バッキングが打ち込みだってだけで低い評価が与えられ、審査員から説教までされていたのである。わざわざTVに出しておいてそりゃ晒しモンでしょと思うのだが、あとゲスト審査員の戸川純だけが評価するランプをつけて(なんかそういう仕組みだったのだ)、「テクノ死なないで欲しいの」といったという、泣ける話もあった。そういう空気があったのだ。初期ソフトバレエなんかも、なかなか出してくれるライヴ・ハウスがなかったんじゃなかったかな。


また同時に80年代なかごろから後半にかけては、ニューウェーヴの退潮もあった。
もともとニューウェーヴ-ポストパンクには、一発芸的な裏書きや、アイディア勝負のギミック的な要素があった。だから、やることをやってしまうと、失速するのもはやかったわけだ。話を電子音モノに限ると、電子音の身体的な快楽が「テクノ」として見いだされるのは、もう少し後のことになる。とくに日本では「テクノ」の受容はほぼ90年代に入ってからでいいと思う。
実際、84〜8年くらいというのは、ニューウェーヴ勢が何をやっていいか分からなくなって、いろいろ試行錯誤をしていた印象がある。御大・クラフトワークの「エレクトリック・カフェ」もそうだし、坂本龍一の「未来派野郎」とかもそういうもんだと思う。個人的にはこの時期の「何やっていいか分からなくなった」(と、私は思っている)系はかなり好きで、たとえばキャブスの "The Convenant, the Sword and the Arm of the Lord" はいまでもファイバリットである。そういえば、ジグジグ・スパトニックというのもこの頃でしたね。


まあ、なんでこんな話をツラツラ書いているかというと、その当時、ぼくは大学生だったわけだが、ほんの数年前にリリースされたレコードが本当に入手困難になっていたということがいいたかったのだ。このテレックスも例外ではなく、日本盤『テクノ革命』(そういう邦題だった)は、89年ごろには中古盤屋で法外なプレミアムがつけられていた。あとYMO周辺のものも、ものによってはシングル1枚で1万円なんて値段だったりしたものだ。


だから、94年にCDで再リリースされたときには、速攻で買いましたよ。
いわゆる、「親のカタキ」買いという奴です。
というよりも、本当に聴いてみたかった。だって、バンドの存在を知ったときにはもう、どこにも売ってなかったんだもの。

89年に大学の巡検旅行で鹿児島に行ったとき、そこの中古盤屋で1000円で売られているのを見つけ、「ああ!」と思ったんだけどなぜかそこではジム・フィータスなんか買っちゃって……という話もあり。そのレコ屋の向かいにまじで「キャバレー・ヴォルテール」という名前のクラブ(?)があって、「おお、鹿児島すげー!」とか思ったものだったのだが。

まぁ結局、親のカタキ買いなわけか。


まとまらないまま、終わる。