夏目房之介さんによる、80年代後半以降のマンガと自分との距離について。

http://www.comicpark.net/natsume041001.asp



この文中で「ポストモダン」という語が用いられながら、それに対して半信半疑的な感想が持たれているのは、ひとえに「マンガのモダン」がきちんと指し示されていないからだと思います。「モダン」がなければ「ポストモダン」もないわけで、ことマンガは、いま我々がいうような意味での「マンガ」になってからすでに100年近くが経過しているわけだし、大量複製を前提にしていますから、当然のことながら近代の産物です。


マンガ評論家という、職業としても成立してんだかしてないんだか分からない世界のなかで、夏目さんひとりが圧倒的に強いのは、「マンガ表現論」という、原理論を手にしているからでしょう。
社会や自分との関わり<だけ>ではなしに、マンガを見るというものさしが、それが仮構されたものだとしても、いちおうはあるという事は、自己の相対化を促します。自己の相対化、というと漠然としていますが、ここでは、自分の人生上の読書体験(何歳のときに何の連載があって、リアルタイムで読んでたから……とかいう、あれね)から離れて、マンガを見る/語ることの可能性という意味でいっています。それは、もっといえば、マンガの表現に「美」や「達成」を見いだす態度にもつながっていくでしょう。などと言明すると、すぐに「反動的」とか、「抑圧的」とかいう意見が出てきそうなのが、マンガというジャンルの面倒くさいところですが、しかしこれは、現実には、いつもまでも「マンガが好き」でいられるための処方だと思うのですね。その姿勢を維持しながら、どう年齢を重ねていくか、という処方です。少なくとも、30代も後半になってきたぼくにとっては、そうなのです。先行する世代がどんどん辛くなったり、ダメになっていったのを見続けてきたということもあって、わりと切実な問題だったのです。


若いひとは、すでに知らない話かもしれませんが、90年代前半から2000年ごろまで、「マンガはつまらなくなった」「衰退した」「停滞している」などの大合唱が、主に1950年代生まれの「マンガ評論家」たちによって盛んになされました。いま20代のひとびとが子どものころから親しんできたマンガ群は、彼らにとっては「つまらなくなった」ものでしかなく、むしろ状況全体が「問題」として棄却されてきたのです。なぜなら、自分たちが若いころに受けとったような興奮や高揚がもう得られなくなっていたから。そこで、彼らの言説には、自分にとって何が「どう」つまらなくなったのかという説明はほとんど見られません。つまり、彼ら自身の側の変化や、自身の持つ枠組みの限界に対する自省はそこにはありませんでした。
そのなかにあって、夏目さんは、それに全く与していない希有な存在だったのです。そのことは、しっかり記憶されていていいと思います。