鉱物の「テリ」

ところで「テリ」という言葉について。

この言葉は、わりとよく使います。鉱物の「光沢」に近い概念なのですが、表面の質感を含んだ表現となっています。この場合の「表面」は結晶面にかぎらず、破面や結晶集合の表面にも使います。どうやら、もとは宝石の世界で使われていた言葉のようですね。たとえば、岡本憲将「宝石の常識」シリーズにもよく出てきます。
ぼくらがこの用語をよく使うのは、これが「光沢」よりも繊細に鉱物種の特徴をいいあらわすことができるからです。たとえば、無色透明なアダム石と異極鉱はすごくよく似るけれど、テリが違うからなんとか区別できる……とか、そんな感じで。あるいは、同じ水晶でも産地によってテリが違う、という使い方もします。山梨の小尾八幡山の水晶には、ちょっとトロリとしたテリがある、そしてネパールのガネーシュ・ヒマールのものにもすごくよく似たテリのがある……という使い方です。

斯様に「テリ」という言葉が使えることで、ずいぶん鉱物種の同定やらなにやらが効率的に行われるわけで、その意味ではこの言葉は優れた分析装置(この場合は人文科学的な意味での「装置」ですね)なのですが、しかし、では、「テリ」が「科学的」な術語になるかといえば、そうではない。同様に感覚的な用語であるところの「光沢(luster)」は、いちおう科学的な術語になっているのに、です。個々人の感受性の個人差に負うところが大きいからでしょうか。でもそれは色でもそうなわけで(色覚の感受性には、相当な個人差があります)、だから一概に「テリ」を排除する合理的な理由は見あたらないのです。

ひとつ考えられるのは、「テリ」が鉱物の世界に導入されたのが比較的、新しく、その時点ではすでに肉眼による鉱物の同定は「学問」のフロントにはなかったということがあるでしょう。
科学は「客観性」を重んじます。そこで、誰が観察しても同じ結果が出る方法がより良いものとされます。現在では、鉱物の同定は目で見て判断するよりも成分などの機器分析によるようになっています。これは、岩石薄片の偏光顕微鏡による鑑定も含めてそうなっているのだそうです。ぼくが大学にいたころには、薄片の偏光顕微鏡による観察については、職人芸的なスキルも叩き込まれたものですが(ボンクラ学生でしたが、偏光顕微鏡の授業は好きで、成績もよかった)、現在ではそれも、EPMAによる化学組成スキャンに移行しつつあるということです。たとえば、ヒスイの中に含まれる曹長石など、偏光顕微鏡による観察では長い間、石英と誤認されていたのが、機器分析で正体がはっきりしました。そして結果、ヒスイの成因論の変更にまでつながっていったのです。


ここで長々と「テリ」について書き連ねているのは、以前、名古屋鉱物同好会の『東海鉱物採集ガイド』の編集・構成をやったとき、会長の下坂康哉氏から「『テリ』という日本語はない。すべて削除せよ」という指示があったからなのですね。下坂氏は地質調査所に勤務していた、粘土鉱物学の研究者でもあった方です。そこで、鉱物コレクターとしての現場感覚よりも、「科学的」な語の使用のほうを取られたのかもしれません。よって、同書には「テリ」という言葉は登場していません(どっか一カ所くらい残したような気もします)。まぁ「テリ」とは何か、を説明するのが面倒くさかったというのもあるのですが。