石子順造

石子順造『現代マンガの思想』(1970)を再再読中。もちろん時代も感じさせるし、主張には頷けないところも多々あるが、いま読むとたいへん示唆に富んでいる。また、緻密に論を展開する部分と、ある種、自身の感性に添って結論を急ぐ部分が交互に出てくるあたりが、逆に評論としての迫力を生んでいる。その未整理な「つんのめり」感は、素の読者モードでもかなりぐっと来る。

こと手塚治虫へのアンビヴァレント(ぼくにはそう感じられている)からは、表現のレヴェルの達成を評価しようという姿勢と、いや戦後の民衆の精神(と、石子順造が考えているもの)に根ざした評価から批判を加えなければ、という姿勢との葛藤を感じた。石子順造にとっては、この両者の「読み」は分かちがたく結びついており、であるからこそ葛藤が「裂け目」として意識されるという言い方も可能だろう。つまり、マンガを読む/語る行為の内部に含まれる「裂け目」のようなものと一般化することが可能なのだ。一方、この「裂け目」を強いられたものと見ることで、翻って我々がいま、マンガを語る言説の可能性が指し示されるように思う。マンガを「美」的なものとして見ようとしつつ、しかし同時に「戦後精神」(と彼が考えているもの)に強力に引き寄せられているものとして、石子順造を読むというわけである。

ここから逆に、「いま、ここ」の我々に引きつけて考えられるのは、一種の方法論的な態度として、「裂け目」を意識的に押し広げることだ。それはじゅうぶんに可能であろう(少なくとも私はそう考えている)。それはつまり、表現のレヴェルの達成と、想定される読者の集合的な精神のようなもの(それは、「人々の読み」といった言葉で指し示される多様性とはまた異なる。為念)とを、あたかもそれぞれ独立のものであるかのように取り扱う手付きである。



現在は絶版だけど、文庫とかで復刻すべきだろうこれ。
すでに多くのひとがいっていることなので、いまさら何なんだが、石子順造はもっと読まれていいと思う。とくにマンガに関心があって批評とかも読む若いひとは、ぜひ手に取ってほしい。


あと「石子順」ってマンガ評論家が別にいるせいで、文中で「石子」って略せないのな。「順造」ってのもヘンだし。