昨日の日記について

やはり自分の抱える問題について書くとなると、どうしても慎重さを欠くというか、いわなくてもいいことまでいってしまう。まあそれは、自分の気もちの面では一度はそうしないと収まらない部分もあるのだが、しかし、その結果について責任が取れるかどうかというと、それはまた別の問題だ。id:heso君が指摘してくれたのは、こちらに属する。言表のパフォーマティヴな側面だ。
それは確かにその通りなので、文中に出てきた病院の固有名をいくつか伏せたのだが、一方で昨日の「過眠症とわたくし」は、本来であればきちんと分別して語るべき話題を一緒くたにしてしまったのもよくなかったと思う。


まず、10年前、20年前の話と、いまの状況は分けなければならないということ。
現在、しだいに過眠症の存在は認知されつつあるし、現在から遡って「あのときこうだったろう!」と糾弾するのは、それが今後の改善や進展につながらない限り、しても仕方がない。その意味で、たしかに病院の固有名は出す必要がないことだと思う。とくに総合病院では、個別の疾患すべてに目が配ることは難しい。こと睡眠障害の場合、現在では精神科領域の疾患となっているが、本質的には「睡眠科」というかたちで独立させるのが望ましいとされている。結果、患者の側からみればどこの科に受診していいかが判然とせず、医師の側からすれば、そもそも関心が向きにくい例外的な訴えということになりがちなんじゃないかと思う。ぼくの事例に即していえば、神経科神経内科は、少し専門がずれた科ということかもしれない。以上のような前提は踏まえられるべきだったと思う。

そういった考えもあり、批判的な文脈で触れている病院の固有名は、名古屋市立大学病院を除いて削除した。

ただ、高校のころかかった名古屋市立大学病院の例だけは別に扱いたい。
これは、この病院自体がいけないというわけでもなく、また20年前の話でもあるので、いまは状況も変わっているだろう。また、この医師をいまから探し出して糾弾しようと、またいまさら謝罪をされようと、ぼくのこれまでの人生が返ってくるわけではない。だから彼自身をどうこうしようとは思わない(偶然、目の前にあらわれたりしたら、殴ってしまうかもしれない。でも、それで気が済むわけでもない)。だがしかし、それでもぼくが鋭く問題にしたいのは、これが単に「診断をつけられなかった」という話ではないからだ。次に分別しなければならないのはこの点である。問題は、医師が「そんな珍しい疾患であるわけがない」といって叱りつけたことにある。単なるその時点での見過ごしに留まらず、その後の診療可能性も妨たげていたからだ。

それへのわだかまりが、その後にかかった病院への怒りに転化していった可能性はあるだろう。たしかにT大病院では、過眠症については「ああそうですか」ですます一方、頭痛に関しては「脳腫瘍などがあるといけないから」というので、かなり綿密な検査も行っている。発生頻度を比べれば、ナルコレプシーのほうが脳腫瘍よりも上じゃないか、というツッコミも可能だが、そこは彼の専門領域に視界が規定されていたということだろう。医療の専門分化による、避けられないパラドックスともいえる。逆に睡眠科の医師が他の領域にある疾患を見過ごすことも考えられるわけだ。
当人としてはあまり気分のよくないことだけれど、ことさらに強く糾弾するべきことでもない。やはり、固有名を出す必要はなかった。

しかし、医師が「あるわけがない」と怒ることは、自分が毎日、眠くて辛いことを病気かもしれないと考えること自体がいけないことだ、という道徳的なメッセージを含む。ぼくが「否認」といい、ことさらに過眠症を「珍しい病気」とすることを批判するのは、この一点による。これはまさに、先にぼくが自戒してみせた、言表のパフォーマティヴな側面だ。この一言がなければ、色川武大のエッセイを読んでナルコレプシーの徴候はすでに知っているわけだし、名古屋大学病院は昔から睡眠障害の治療で有名なのだから、早い時期に診断がつけられたかもしれない。しかし、ぼくは「昼間の眠気」などを理由に受診しようとは思わなくなった。世の中には専門医もいるということも考えつけずにいた。ずうっと困っていたのにもかかわらず。

ぼくは幸いなことに専門医のところにたどりつき、まがりなりにも治療を受けることができた。その結果、QOLは向上している。しかし、こうした「あるわけがない」式の先入観に、道徳的な価値判断が含まれているかぎり、今後も過眠症は見過ごされ、受けられる治療も受けられないひとは放置されるだろう。
「稀な病気」観を問題視するのは、この文脈でのことだ。むろん、過眠症に対して「なまけ者」などといって詐病を疑うことが、もっとも酷い仕打ちであることも背景にはある。


また、現在でも医家の間で「稀な病気」と思いこまれ続けているということもある。
卑近な例では、某大学医学部でも似たようなことがあった。その大学医学部の基礎研究に籍を置いている知人の体験だ。ぼくは、本人から直接話をきいている。
知人は、自分の研究室の教授から「君、ナルコレプシーかもしれないから、検査してもらいなさい」といわれ、同じ大学の病院にかかったのだが、そうしたら、そこの医師から「これだから基礎の連中は困る。教科書に載ってるだけの稀な疾患も疑ってしまうんだから」といわれたのだそうだ。
検査の結果、ナルコレプシーの徴候は得られなかったため、そういわれたのかもしれないが、またしても「そんなもの、ある筈がない」だ。ちなみに、知人は研究室内の発表の席で、次は自分の番というときに眠り込んでしまい、それを見た教授に受診するようにいわれたという。

この場合、ナルコレプシーかもしれない、と疑ってみること自体が退けられている。これは、頭が痛いから脳に腫瘍があるかもしれない、と疑うことを退けるのとは意味が違う。頭痛がする、という症状があったとして、それは偏頭痛という疾患かもしれない、と疑ってみること自体を退けるような態度だと思う。


もし眠気に困って医師のもとを訪れた誰かが、「そんな珍しい病気である筈がない」といわれたら、そのときはその場で怒鳴りあげたっていいと思う。それはその場で行われるべきだ。そして、速やかに他の医師にかかるべきだ。繰り返すが、過眠症はけっして稀な疾患ではない。
ナルコレプシーかもしれない、という自己判断を医師が問題にするのもおかしい。それは「自分は病気かもしれない」という認識とほとんど差がないからだ。ぼくは最初に「ナルコレプシーですね」と診断されたとき(実際には、入眠時のレム睡眠という徴候は見られなかったのだが、それでもナルコレプシーだと診断された)、「ああ……、やっぱりそうだったのか」と思い、それまでを思って力が抜けるような気持ちになった。涙があふれた。
だからこそ、ぼくは専門のクリニックを薦めている。


あとひとつだけ、付け加えておくと、「なるこ会」の会員調査によれば、多くの患者さんは発症してから受診するまでに長い時間がかかっている。平均して十数年だ。その間、いくつもの医者にかかっていることが通例だ。ぼくと同じように「そんな珍しい病気であるわけがない」といって叱られたひとも、きっといると思う。
過眠症について、とくに医師の「否認」が働いているのでは? と考える根拠のひとつは、こうした事象にある。それ以前に、医師たちがナルコレプシーの存在は知りながらも、一方で「稀な病気だから、ある筈がない」とする、その言表だけを見ても、論理的に「否認」といえるだろう。
病院に来て、診断された患者だけでも結構な割合でいる筈だ。統計数字にどれほどの意味があるかという問題もあるのだが、ナルコレプシーの発生率は1万人に1人とも、2人から16人ともいわれている(この幅の大きい数字にも別の問題があるとは思うが)。一方、別の疾患では、1万人に10人の発生率で「けっして珍しい病気ではない」といわれることもある。
ようは、数字が問題なのではなく「珍しい」「珍しくない」という判断に価値判断が混ざってくることのほうに問題がある。ナルコレプシーをはじめとする過眠症を「稀な疾患」と頭から決めつけている医師に問いたいのは、ではあなたの知識のなかにあるナルコレプシーの発生率はどれほどなのですか? ということだ。単に知らないでいて、ただただ「稀な病気」と思っているだけの例が多いような気がする。そこで公表されているいくつかの数字を見たら、意外に多いと思うかもしれない。





このあたりで、過眠症関連の話題は止しておこうと思う。
「睡眠」とか「居眠り」とかいった現象自体が、健康な状態に対してもよく分かっていない以上、議論がどこかで堂々めぐりに陥る可能性もある。
当然のことながらこの話題には強く関心はあるけれど、いつまでもそれに関わっていられるわけでもない。ああ、これも思い出したよ。なんで患者の会の会誌原稿から逃げていたかというと、この問題についてばっかり考えるようになるのを怖れたからってこと。自分の問題として切実であるだけでなく、考え出すとそれなりに面白いというのが困ったところなんだ。

いずれにせよ、ナルコレプシーや過眠症が「稀な病気」と思いこまれることなく、多くのひとが安心して病院にかかり、適切な治療が受けられるようになることを望んでいる。
ここであれこれ書いたのも、そういう願いからと理解してもらえると嬉しいです。