ハガレンは何が面白いのか(「器官なき身体」とは言いませんよ)

夕方よりプチ揺り戻しが。講師をしている学校の授業を朝から夕方まで済まし、帰りの電車に乗ったところで一気に眠気が襲ってきました。それから夜中まで症状群コンボ攻撃が数時間ほど。朝は朝で、出勤中、渋谷駅でマンガ研究家のヤマダトモコさんに会いました。手に持っていたのは、『NANA』の新刊と見た。仕事熱心なヤツめ(笑)。

授業中に「先生、ハガレンはどうして人気なんですか?」という質問を受けました。これはいささか難問です。なぜなら『鋼の錬金術師』は、確かにいいマンガだけれど、悪くいえば秀才の答案めいたそつのなさがあるからです。斎藤環さんならば、「マンガの『野性』が感じられない」と評するところかもしれません。たとえば、王道のエンターティメントは過不足なく展開している、しかし、気のクルったところはない、という感想もきかれています。ぼくは必ずしもそうは思っていないのですが、そつのなさ、小器用さを感じないわけではありません。その場では、ファンタジックな世界における「地図」のシンプリファイ化という意味で(は共通性を見出すことができるから:カッコ内追加 03/12/16)、『ワンピース』との対比で語ることは可能ではないか? というほどの見解を出すに留めておきましたが、もう少し考えることのできる話題ではあります。「いかにも批評」という言辞を安直に取ることは簡単なんですけどね。錬金術における生成と変化のイメージが云々、とか、身体の欠損という設定/描写から「記号的身体」といってオワリ、とか。それぞれその切り口はアリなのですが、問題はそこから先をどう展開するかでしょう。
ぼくとしては、鎧に魂が宿らされている主人公の弟・アルの存在がとても現代的だと考えています。彼の「身体」はがらんどうです。そのような描写もあり、かつ彼は身体的な感覚の一部を欠損した存在として描かれています。そこで「彼」を、ヴィジュアルな表層と内面しか存在しないキャラクターと読むことはできる。つまり、決定的に「身体」を欠いている。たとえば彼を、機械式のからくり人形に魂を宿らせた、という設定にすることも可能でしょう(主人公・エドが装着している機械式義肢が、金属の成分にまで言及した、過剰なまでにマテリアルへの描写を伴うものであることとも対比が可能)。また、そうしたほうがより「リアル」だったかもしれない。あるいは、かつてのマンガであれば、そうした設定が採用されたことでしょう。しかし、作者は空洞の身体を選択した。ぼくにはアルの「身体」が空洞であること、空虚であることが重要なように思われるのです。いまのマンガ表現/キャラクター表現にとっては、そちらのほうがよりアクチュアルに感じられるのではないか。ここでぼくが空洞の身体に感じている「アクチュアリティ」について、もう少し慎重な言語化が必要だと思っています。これは、日常の世界における我々の身体感覚が希薄になっていて、という話と結びつけるような、安直な反映論では決してありません。もう少し別の位相の、キャラクター表現空間とも呼ぶべき、間テクスト的なリアリティの問題系に属する話です。ひょっとしたら、大塚英志的な「記号的身体」という概念を超えるものがあるかもしれません。そこについてはまだ「考え中」ですが。