帰宅途中の西武線で『湾岸ミッドナイト』を読んでいたのですが。

といっても批評家モード全開で、楠みちはるのマンガ史的な重要さはどこにどう見出せるか? ということを考えていたのでは決してなく、そこに描かれる走り屋のひと同士の「走り」を介したやりとりを素で「いいなあ……」と思っていたのでした。つまりですね、鉱物趣味の世界でもそれがある筈だし、実際、そういうことも体験してる筈なのですが、それが希なことに思えるのはどうしたことか。どうしても周囲に対して愚痴やら文句やらのほうが多くなってしまう。それではいかんでしょう。別に趣味ゴトだし誰に頼まれてやってるわけでもないけれど、自分の楽しみでやってる以上、できるだけ心にぐっと来る瞬間は欲しいよなあ、それには自分の楽しみを営みのなかでいかに高みにまで昇華できるか、しかも力まず、畏まらず、軽やかに達成できれば最高だよなあ……と思うのですよ。
実はこの土日、所属している同好会の採集会で糸魚川に行き、ぼくは幹事をやったんですが、最も快楽に満ちた瞬間てのが、宿泊した姫川温泉で岩風呂に入ってるときだったんですね。ああ、オレはこんなにいい気持ちになってて良いのか。こんなにいい思いをしてて良いのか、それに見合うだけの仕事はしてるのか……いや、してないダロ、と、反転して自分ツッコミをはじめ、あぁこういうとき、昔のひとは「こんないい目にあったんじゃお天道さまに申し訳ない」とかいったのかと、ちょっとヘコむほど良い気持ちだったのです。が、それが採集の現場ではなく、温泉であったと、風呂であったと、そういう案配だったのです。もっとも、採集の現場でうはうはに成果が上がり、しかも同行者との間に緊密な満足が走るような体験があったとしても、それはまず、ストレートにこの日記には書かれないでしょう。そういう現状があるのです。その意味でも『湾岸〜』の密やかさとは近いものがあるかもしれないですね。