貸本マンガRETURNS

朝から所用があり外に出ていた。
雨に降られなかったのは幸い。
いろいろ資料など買い込み、ひとつ受けるかどうか思案中の仕事について下調べをし、提出しなければならない書類を投函し、ようやく一服したところ。


いろいろ渦中のこの本を購入。
夏目房之介さんが批判を書き、その後、著者のひとりである権藤晋が「反論」をし、彼の仲間たちが口を極めて夏目さんを罵ったという、一種「いわくつき」になった感のある本だ。


貸本マンガRETURNS

貸本マンガRETURNS



当の貸本マンガ史研究会のBBSも少し覗いてみたが、あまりに陰惨で嫌な気持ちがした(荒らしめいた書き込みがあったせいもあるが)ので、早々に見るのをやめてしまった。彼らの夏目さんへの罵倒には、ほとんど具体性がなく、「こいつのことは嫌いだから嫌いだ。嫌いなヤツの書いているものを読んでみたが、なるほど何もかもつまらない」と要約できてしまうようなものだった。何か似たようなテイストのものを前に読んだことがあるなと思ったんだが、それは聖教新聞日蓮正宗(とくに阿部日顕)の罵倒を何日も何日も載せていた記事だった。
貸本マンガ史研究会の夏目さんへの罵倒に話を戻すと、一言でいえば取るに足らない、単なる「逆恨み」だな、というのがぼくの感想だ。


もっとありていにいえば、うんざりした。


こういう展開になると、ひとの心理として「貸本マンガに手を出すと思い入れの深すぎる人々に騒がれるので面倒だしおっかない。だから触れるのはやめておこう」という気になるのは避けられないだろう。
「ちょっと批判をしただけで、ワケのわからない罵倒を食らう」ものにわざわざ手を出すのは、相当な物好きか、それに関わる必然性をすでに意識しているひとだけになる。


ぼくだってそうだ。
わざわざ火中の栗を拾うくらいならば、もっと実になる仕事をしたほうがいいと考える。貸本マンガなんか、放っておいたほうがよほど平和に暮せる。
面倒な逆恨み連中の相手は、第一〜第二世代オタクのどうしようもない人々で十分だ(笑)。これ以上、うんざりする要因を増やすのはよくありません。


とはいえ、マンガ史的に「貸本マンガ」は避けて通れないものであるし、「劇画」と呼ばれるものの表現史には関心があるので、とりあえず勉強させていただくといったスタンスで、できるだけ虚心に読むことにしようと思う。とにかくこれを資料として読もうという態度ですね。


そもそも、ここでこうして貸本マンガ史研究会に言及するだけで、相当にリスキーな行為だ。はっきりいって面倒くさい。
だけど、一度はこうして触れておかないと、こと若い読者には、これを「資料」として手に取る機会自体が失われてしまうでしょう。


まずは「資料」としてみること。読んでみること。
当たり前の話ですが、そうでないと話ははじめられないわけですから。