「叱って」るわけじゃないですよ。お間違えなきよう。



まずはこちらのエントリーをお読みください。
白拍子なんとなく夜話:http://d.hatena.ne.jp/y-shirabyoushi/20060319


「プロがきちんと叱ってほしい」と書かれているが、この場合の「プロ」とはどういうひとのことをいうのだろうか。
単にマンガ評論だけで生計を立てているかどうかという意味ではないと思う(その意味での「プロ」はこの国にはひとりも、そう「ひとりも」存在しない)。だから、金銭的なことは基準にならないわけだが。
当然のことながら、私自身にその「プロ」としての資格があるかどうかは分からない。確固たる判断の基準が存在しないのだ。


なんだか歯切れが悪くて申し訳ないが、ただ、自分の成長とともに読んできた作品を特権化して、そこにしか基準をおかないという読みの問題については指摘しておいていいだろう。次に、件のレビュアーが、マンガ作品に描かれている作品世界への「没入」を、いいかえれば、そこにある「リアリズム」を無前提に疑い得ないものとして扱ってしまっているという素朴さこそが問題視されるべきではないかと思う。
とはいっても、この批判――というと必要以上に言葉が強くなってしまってよくないのだが――は登場人物に対する感情移入や、それこそ作品世界に安心して没入するという読みを抑圧するものでも、退けるものでもない。そうではなく、「それ以外」の読みもあったほうがいいでしょ、もっとマンガの楽しみが広がるでしょ? といっているにすぎない。


これは昨日のラジオ出演のときにも考えていたことで、実際に少ししゃべったことなんだが、端的にいえばマンガに描かれている人物像がカッコイイというだけでなく、それを描きだしている「マンガ」という表現それ自体がカッコイイという視点があってもいいんじゃないの? ということだ。
たとえば、映画に関する言説史を少しひもといてみれば、作品で「何が」語られているかではなく、「どう」語られているかに批評や研究がシフトしていったことが分かる。「表現」は成熟していくと、だいたいそういった経緯をたどるようだ。マンガもまた、例外ではない。もちろん、この話にはマニア層の「成熟」も含まれる。


ほうぼうで呆れられ、またコメント欄も炎上しかかっている件のマンガレビューサイトに関しては、もとより相手にしないつもりでいた。そもそも、エンターブレインともファミ通とも関係ないのにサイトのデザインからタイトルから丸パクリな時点でこころざしが低すぎるだろう。
パロディやオマージュであるという言い訳は少々苦しすぎる。むしろ出来の悪い「偽装」にすら見える。すでによく知られたものの力を勝手に借りたものでしかなく、その時点で「私たちの意見は、そのままでは読んでもらえないに違いない」という、腰の引けたものを感じる。到底、ひとに説得的に自分の意見を読ませようという姿勢とは思えない。
直接のリンク、トラックバックをしないのは、この理由による。「リンクすらしてやらない」という態度と受け取ってもらって構わない。なお、件のサイトは個人のブログなどではなく、広告募集もしている。成立しているのかどうかはともかく、少なくとも商業的なものを志向している。


それはさておき、件のレビュアーのあまりに素朴な「反応」は、むしろ『失踪日記』がそれだけ一般に「マンガのリアリティ」と信じられている制度を鋭くついた、実に批評的な作品であるという評価に具体的な根拠を与えてくれたのではないか。


であれば、件のレビューがウェブで発表されたということは、われわれにとって慶賀すべきことだろう。おそらく、当のレビュアー自身にとっても。






※いっこだけ追記。
実は私は、自分の叔父をアルコール依存症の果ての衰弱死で亡くしている。その末期の姿も目の当たりにしている。彼はデザイナーでイラストレーターだった。子供のころは、東京の業界でかっこよく仕事をしている彼の存在が誇らしかったものだ。
しかし、そうしたこととは関係なく、私は『失踪日記』を高く評価している。


これは、どうしたことだろうか。