今朝は響鬼さんの途中で目がさめました。
あいかわらず『H×H』と格闘。
主題のレヴェルの話をするのは簡単だが、表現のレヴェルのそれとなると、途端に難しくなる。なにか糸口がある筈なんだが。


それにしても、ゴンの父はいったいなにを考えてあんな手のかかったゲームを作ったんだろうか。作中では、その動機や理由は明確に示されない。むしろ、まったく説明されない。もし息子であるゴンを鍛えるためだけだとしたら、頭がおかしい。よって、『グリードアイランド編』は、まさに手段が自己目的化して肥大し、全体を飲み込んでいく本末転倒、を味わうのが正しいという気がする。
と書くと、第一世代オタ的なシニカルな裏読みにみえると思うが、もちろんそうではない。なぜかというと、昨日も書いたけれど、このマンガが「表現そのもの」への自己言及であると取れるからだ。そもそも何が「目的」で、何が「手段」であるかを、物語世界の内部だけで考えることも、テクストを作っている者の意図だけで考えることもできなくなっている。であれば、グリードアイランド編の「自己目的化」、ゲームの内と外との境界の入りくんだ構造は、90年代以降の「少年マンガ」が抱えた何かであることは容易に推測できる。



……のだが、問題はこっから先。
もっぺん最初から読み直すかなー。
次は付箋紙を二種類用意してって感じだな。
(でも明日締め切り)