「メンヘル」と「愛国」・つづき

 昨日のエントリーに、おもいのほかトラックバックをもらった。
 まずアウトラインを再確認しておくと、ぼく自身はナショナル・アイデンティティからは遠い。というよりも、あらゆる「共同体」に帰属しているという意識自体が希薄だ。それをフリーライダーだと謗る向きもいるだろうが、別に「やること」はやっているわけで、単に心情的に「帰属している」という意識が薄いというだけだ。フリーライダーではない。ただ、日常的に「よき国民であれ」「国を愛せよ」というメッセージに出会うと、本当に自分の命が削られる思いがする。ぼくにとっては、こうした言葉はただの脅迫である。まあ、とはいってもこれは理屈ではなく心情のレヴェルでそう思うだけなので、普段は「別にそういうのが好きなひとは好きにしててくれ」というほどの態度でいる。嫌だけどね。


 これはこれから余裕ができたら調べてみようと思うんだけど「アイデンティティ」という概念は、論者によって少々異なる意味に使われている。ぼくは「この身体に、この”私”が宿っているということが、違和感なく実感されていること」をアイデンティティの確立、というほどの意味で理解しているが、どうも、一般的にはこうした理解は少数派のようだ。どうも、「自分が共同体に帰属し、その共同体内部での役割を違和感なく引き受けている状態」をもって、アイデンティティの確立とする見方ってのがあるようだ。あまり考えたくないけれど、こっちの意味のほうが多数派らしい。
 ジェンダーフリー教育は社会や家族を破壊するといって批判している論者とかに、こっちの理解が多いようだ。誰だっけ? 荒川区かどっかで条例を提唱してたどっかの大学の先生。検索して調べればいいんだが、このおっさんのサイトに明確にこっちの意味での説明があって、少し驚いたことがあった。たしか、「アイデンティティ帰属意識」という等式で考えられていたんだっけか。


 あえて挑発的な物言いをするけれど、ぼくはこの意味で「アイデンティティ」を語るひと(たいがいは男性だな)を、基本的に信用していない。バカだとすら思う。理由は、そういうひとは「私が私であること」という固有性から目を逸らしているからだ。「じぶん」を愛するということから逃げているといってもいい。
 「私」である前に日本国民であれ、「私」である前に共産主義者であれ、「私」である前にオタクであれ‥‥なんでもいいが、「私」である前に共同体の成員であれ、という形で、「私」から問題をズラすことができるわけだ。


 でもね、オレはそんなのズルだろ、と思ってしまうんですよ。
 まず「じぶん」であれ、という命題の重さから逃げただけだろあんたたち、と思うわけだ。だから、これも一般的には何バカなこといってんだと思われるけれど、オレはそこらの政治家や社会的に成功しているヤツよりは、よっぽど「ひきこもり」のほうにエチカルなものを見るね。もっとも、まず「じぶん」であって、そこから逃げず、きちんとそれを引き受け、かつ社会的にも成功しているひとだっている。だから、昨日のエントリーのように、「保守」系論客や政治家に期待したわけだ。いわゆるリベラルな学者など一部のひとを除いて、いま「左翼」って壊滅的にダメじゃない。とくに団塊の世代なんてドシャメシャでしょう。ひどいことになっている。それに、こっちはこっちで「じぶん」から逃げているヤツなんざ、ごまんといるだろう。逆にいえば、ぼくが「ひきこもり」にこだわるのは、病像として「じぶん」から逃げられない人々、「じぶん」という牢獄に落ちた人々、という理解をしているからだ。


 この「ひきこもり」理解については、斎藤環さんに直接尋ねてみたこともあるんだが、まあ「だいたいあってる」というような感じだった。
 また、これは詳しくは書けないんだが、ぼくはひょんなきっかけから、「ひきこもり」の人とは日常的に接するようになっている。一緒に役所に行ったり、すこしぼくの仕事を手伝ってもらったりという形で、社会復帰に向けた過程に少しだけ介入している。先方のプライヴァシーの問題があるので、具体的なことは書けないが、そうしたつきあいからも、上記のような理解は得られている。つまり、彼は「まじめすぎる」のである。
 一人の事例からだけ、全体を敷衍するものを語ってはいけないのは承知しているが、さまざまな「ひきこもり」の本を読んでも、ある程度ティピカルな部分は見えている。やはり「まじめすぎる」ってのは、ひとつの徴候としてよいように思っている。しかし、その彼のお父様は「おまえは自分の人生を真剣に考えていないからそうなるのだ」と詰め寄ったんだそうだ。


おい、おっさん、何をいいだすんだ、と思うのだが、社会一般的には、というか一歩退いてみれば、これは正論だろう。けれど、「正論」がまったく力を持たない好例でもあると思う。だって、当人の気持ちに寄り添って考えれば、彼は真剣に考えすぎて動けなくなっているんだから。ただ、それが空回りしているのが問題なのだが、しかし、実際に彼のお父様の意見は、状態を悪くするだけだった。
 でも、「じぶん」から逃げているひとは、逃げているということ自体にも否認が働くので、こうした「正論」が力を持たないという事態も理解できず、逆効果になることをどんどんやってしまうんじゃないかと思う。


 ただ、ナショナル・アイデンティティを構築しようという教育によって、「ひきこもり」が予防できるかというと、多少は効果があるんじゃない? と思う。もちろん上手くナショナル・アイデンティティなるものをインストールできればの話だけど。
 「じぶん」である前に「日本国民」であれ、というのはズルだが、ズルであるがゆえに、「自分の人生を真剣に考えなくてもOK」になるからだ。軽くなるんだと思う。だけど、その「予防」ってのが、思春期に得られた「こころの負い目」の代償という構造を取る以上(実際に、メンタリティとしては限りなく「ひきこもり」に近いけれど、ひじょうにナショナリスティックな言動を取るひとから、こうした「告白」をきいたことはある。また、斎藤環さんの「ひきこもりはオタクになったほうがいい」も、同じ文脈で理解されるだろう)、首尾よくナショナル・アイデンティティを得たひとが、ひどく不寛容な主体になることは、容易に想像される。そういえば、「ひきこもり」から立ち直ったひとのなかには、「ひきこもり」をひどく攻撃するひとがいるという話もあったな。


 なんだか上手くまとまらないので、このまま「投げっぱなし」で終わるけれど、まあ昨日のエントリーには、このような背景があったということで。