松谷創一郎さんによる奈良女児殺人事件「物語化」のまとめ

http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20050116#p1


とてもよい仕事がされています。「事件」の語られ方についての、豊富な資料に裏付けられたまとめです。労作です。今回の「報道」だけでなく、こうした事件の「物語化」について、宮崎事件以前に遡った検討がされています。そこからは、宮崎勤事件との語られ方の差異もみえてきます。事件の「報道」について考えたいひとには必読でしょう。


松谷さんのところのコメント欄にも書いてますが、今回の大谷昭宏氏の問題は、あらゆる意味で氏の発言や姿勢の「質の低さ」に帰着すると思います。また、容疑者逮捕後も事件と「フィギュア」や「萌え」を結びつけた発言を繰り返してきたのは大谷氏一人です。この「孤立状況」は、もちろん事実がそこにはないことによるものですが、マスコミの「商品」としてみても、「事件」と「オタク」とを結びつけることが陳腐なものととらえられはじめていることを示すものかもしれません。
とはいえ、彼がすぐに淘汰されるとも考えにくい。やはり、これは大谷氏個人の問題ではなく、メディアの側の構造的な問題だとするのが妥当な考え方でしょう。


また、”オタク”の側が「オタクの自意識」にひきつけて今回の「報道によるバッシング」を語ったことも、事件の過剰な「物語化」のひとつの側面だととらえられます。
だから、いわゆる「オタクバッシング」の文脈だけを特権化してしまっては、問題の核心を逆に見失うことになる。対抗言説を取っているはずが、いつの間にか相手と協働しているかのような図式になりかねません。さらに、ウェブなどで「オタクなんだから身を潜めていろ」式の発言をすることは、よりその傾向を強く持ちます。「オタク」という存在の特殊化という点をみれば明白ですが、「フィギュア萌え族」という語が「オタク大賞」で岡田斗司夫賞に選ばれたことは、まさにこのことを象徴しています。


ぼく自身は今回の一連の大谷氏の発言などは不当だし、よくないものだと考えています。不愉快でもある。もちろん、自分が「萌え」などのカルチャーに関わっているし、好きでもあるからなのですが、だから「不愉快」というだけではないような気がしています。


そこで、この「不快さ」について落ち着いて考えてみると、テレビなどの「報道」に対して「あてにならない、いい加減なものだ」と思う一方で、それでもテレビを見て、短時間に得られる情報の断片を材料に様々なことを判断したつもりになっている自分に気づきます。
つまり、ぼくや、たぶん多くのひとは、やはり「報道」にある程度の信頼を持ってしまっている。また、それを前提に「報道」もされている筈です。すべてにわたって「あてにならない」と思ってテレビを見るシニカルなひとは、そう多くないでしょう(そう強弁する向きはいるでしょうが)。ぼくらはやはり「報道」に一定の信頼を置きたいと思っている。少なくとも、そういう気持ちがまったくないとはいえないでしょう。


大谷昭宏氏への「批判」は、このような心情に根ざすものだと思っています。