名古屋・「普通の人」

とはいえ、この日記 http://d.hatena.ne.jp/maemuki/20041021 の人ほど、「環境をコンセプトにしてるのに、ガリガリ開発してるってのはどうよ?」的な、原理原則的な批判をしていないのは、「愛知万博」自体はともかく、この「サポートソング」に関しては、すでにそういう次元の話ではないような気がするからだ。
むしろ、普通の人が「表現」に向かうとどうなるか? という問題系のほうが際だってきていると思った。


ぼくはなにも、「普通の人」を下に見ているとか、「普通じゃない自分たちは偉い」とかいうことを言いたいのではない。
他に適当な言葉がないので、「普通の人」と呼んでいるにすぎないんだが、その意味とは、「語ることも、語りたいことも特になく、また表現そのものの快楽に淫する感覚も持ち合わせていない」人のことだ。
自分や世界との軋轢や摩擦を感じたこともなく、なにもかもを日常の関係や出来事に回収しきってしまえる人たち、というほどの意味、といってもいい。


そういう人ってのは、出版やマンガの業界にも結構いたりする。実際に見聞きしている。ミュージシャンにもいるだろうし、学者にもいるだろう。
上手くタイミングを掴んで、スマッシュヒットを飛ばすこともある。
ただ、基本的に世界と自分に対して「疑い」を持たないから、思考や表現がそこから深まっていくことはない。その契機を、そもそも持っていない。必要としていない。


そういう人を見ていると、「これはこれでいいのかな」という気にもなる。
けれど、少し長い時間的なスパンでものを考えなければならないときとか、一旦は日常のリアリティから離れ、抽象的・超越的な場が必要な事態となると、この手の人たちは決定的に弱いんじゃないか、とも思う。
さらに、世の矛盾とか、割り切れないこととか、答えは出ないけれど現実には存在する問題とかにはもっと弱いだろう。
そうした「問題」には、紋切型で対処するか、そもそも見ないかという態度が取られる。
もっとも、現実への対処法としては、そのストレスのなさという点において、優れたものともいえる。
でもそれは、個々人の「現実」への対処法としての効率という観点からいえば、というだけの問題であって、「表現」の評価とは全く別のものだ。
「表現」についていえば、困難なことをやり遂げた人や、困難に挑んだ人のほうが尊いのは当たり前のことだ。「弱い」ってのは、こっちの意味でいっている。


ここまで、「普通の人」と表現行為について、固有の人名などを出さずに記してきたのは、人は変わるものだからだ。
その人自身の変化もあるだろうし、こちらの見方の変化もある。


でもね、これ名古屋の話でしょう。
名古屋ってね、ここでいう「普通の人」の王国なんですよ。
なんでも「そこそこ」手に入るし、「そこそこ」のことはできる。しかし、そこから一歩出ようとすると、途端に困難になる。そんな土地。
そこそこ満たされている分、「いま、ここ」以外のものを求めようという動機づけに乏しい土地。
憧れの対象となるような魅力的な存在と、埋めるべき欠落の双方を欠いた土地。
だから、人々はおのずと現状肯定的になるし、「いま、ここ」以外への想像力が乏しくなる。
いま目の前に見えているものの価値が優先するし、「美」や「真理」といった価値への信頼にも乏しくなるのは必然だろう。
だから、「カウンター」だってすごく紋切型な存在になる。同じことの作用・反作用だと思うけどね。


近年は、ネットの普及そのほかによってずいぶん変わってきたと思っているし、個々の人の活動などには変化もあるけれど、このサポートソングという「現象」をみると、「基本的なところは変わってねえなあ」と思う。


たぶん、今後も「文化不毛の地」であり続けることだろう。
もっとも、これは「いっても仕方のない」ことに属する。



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