矢沢あい作品は「キャラクターは立っている」けれど「キャラは弱い」



NANA』映画化。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/kiji/2004/12/02/02.html


ちょうど原稿で『NANA』をめぐる「読み」や言説について書いていたところなので、少し驚きました。
矢沢あい作品は「キャラクターは立っている」けれど「キャラは弱い」という見方を梃子に、一気に1920年代までマンガ史を遡るパートです。
これだけだと「?」って感じでしょうけれど、以前にジャンプ同人をやっている十代の女子に『NANA』の感想を尋ねたら、「ふつうに面白いけど、ハマらない」といわれ、その理由を重ねてきいたところ、少し考えて「キャラが弱いから……?」と答えられたという経験に根ざしたものです。
しかも彼女がいう「キャラの強い」マンガとは、『NARUTO』だったり『遊戯王』だったりする。


ようは、こういうことです。
NANA』について私たちが語るとき、たとえば「ハチ子」でも「タクミ」でも「レン」でもいいですが、彼ら登場人物をあたかも「現実の存在」と同列に語りうるでしょう。ちょうど、まるで友達の友達の話でもするかのように。フィクションであることは承知しながらも、しかし「同列に」語りうる。
たとえば、前に担当についたある女性編集者は「わたし、ハチ子が憎くてしょうがないんです」とメールで告白してきましたし、ぼく自身、松谷創一郎さんid:TRiCKFiSH と、「この先、ハチとナナはどうなる?」と『NANA』最終回予想をして楽しく時を過ごしたりもしています。
これが、「キャラクターが立っている」ということです。
ここでは、テクストの背後に指し示されるべき「人間」がいるという前提が自明なこととなっています。
だから、矢沢あいは「いまの子にリアルに起こりうること」を描けるわけです。


しかし、私たちはたとえばジャンプのマンガ、『ONE PIECE』でも、『NARUTO』でも何でもいいですが、そこに描かれている「キャラ」を、あたかも「友達の友達を語るように」はあまり語らないでしょう。そのようにはとらえていない。
けれど、それはこれらのマンガのキャラに「リアリティがない」という意味ではありません。テクストの背後に「人間」を直接見ることはなくとも、そこに確固たるリアリティが感じられていることを意味します。
つまり「キャラが強い」とは、その背後に直接指し示す対象がなくとも、存立する「存在感」の強さをいいます。
かといって、それが「没人間的」であったり「脱人間的」であるわけでもありません。
「キャラがキャラであること」のリアリティのうちに、やはり「人間」は指し示されています。
ただし、それは『NANA』でいう「人間」とは、意味の異なるものです。
高河ゆんが『源氏』第六巻のあとがきマンガで「本物の人間が描きたい」と語った、「本物の人間」とは、おそらくこちらのものです。
その内実にはなかなか迫ることができませんが、抽象度の高い、純粋な「感情」のキャリアとしての「キャラ」のことということはできると思います。


おそらく、現在のマンガの「読み」は、この二者に分離しています。
一般には前者の「読み」しかないと思われていて、後者はとかく「問題」だったり「病んでいる」ものとされがちです。
しかし、それは嘘であり、ある種の否認であると考えています。
どうも、キャラクターの背後に「人間」を見る「読み」しかできないひとと、両方OKのひととにキレイに分かれているようなんですね。
ときには、前者しかできないひとは、後者の「読み」などない、と主張したりします。自分の「読み」が限定されたものだと想像するのは、やはり難しいことです。
だから、この話の発端となったジャンプ系同人をやっている女子に対しても、それは『NANA』で描かれているような「いまの女子のリアル」から、その子たち自身が現実に疎外されているから、矢沢あい作品を楽しめないのだ、という結論に早計にいたってしまいます。単にそれがあまり必要とされていないのかもしれないという想像は、やはりこれも難しいようです。

しかし、ぼくはこのふたつの「読み」の分離は、「強制的異性愛」みたいなもんで、近代的な制度によって無理に「どちらか」に寄せられているんだと思うのですよ。実はそれこそが、マンガという表現をここまで進展させた原動力でもあるのですが、同時に、さまざまな齟齬の原因になっていると思っています。



……というわけで、今日買ってきたマンガ。
ツバメしんどろ〜む』1,2巻


ツバメしんどろ~む (Volume1) (角川コミックスドラゴンJr.)

ツバメしんどろ~む (Volume1) (角川コミックスドラゴンJr.)

ツバメしんどろ~む (Volume2) (角川コミックスドラゴンJr.)

ツバメしんどろ~む (Volume2) (角川コミックスドラゴンJr.)


テクストの背後に直接的に指し示される「人間」がいるという読みから出ない限り、こうしたマンガはただ「キモい」ものとしか映らないと思います。しかし、それはマンガの豊かさの半分を否認するという身ぶりに他ならない。
たしかに、この作品を褒めるのは難しい。でもそれは、言説の側の問題でしょう。ぼくはそれなりに評価しています。だって、何かと徹底しているもの。

正味な話、もし「マンガ表現史」とかいうんだったら、これも『NANA』も同時に語れる枠組みでなきゃいかんだろうと。