大谷氏発言の背景・構造的な問題について

新田五郎氏の「はてなダイアリー
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今回の大谷発言に対し、メディアにある「事件が起こるたびに新奇なものとしたい欲望」のあらわれという分析を加えている。たしかに、指摘の通りこれは構造的なものだ。卓見だと思う。


以前、ぼくは「萌え」について、「週刊現代」のコメント取材を受けた。
このときの記事は、なにか「萌え」をむやみに賞揚し、礼賛しようという、それはそれでよく分からないものだった。全体の論調は森永卓郎氏の「萌えはこれからの日本の基幹産業になりうる」といったこれまた根拠のよく示されないコメントに貫かれていた。

取材のあと、あらためて挨拶に、といって訪れた記者氏と雑談をするうち、「あいかわらず、萌えだのオタクだのをペドファイル犯罪と結びつけるような報道がされますが、あれには根拠もないし、もしそういう記事を書かれたらぼくは抗議しますよ(笑)」と、あくまで口調はやわらかく、ひとこと釘を刺しておいた。カギカッコ内のセリフに(笑)がついているのは、その口調の再現である。


そうしたら、何といわれたか。

「そんなの、たいしたことじゃないじゃないですか。放っておけばいいですよ」


ぼくは正直、驚いた。呆れもした。
このひとは、自分が作っている雑誌の記事を「大したこと」ではないと考えているのだろうか。何十万部も売れ、読まれているものに対して、そうした認識でいるのだろうかと思った。
とにかくこの取材、「わからない」のオンパレードで、ひとに取材に来ているというのに、こちらの話をきちんと聞こうという態度の感じられないものだった。

彼は何に対しても「わからない」という。そして「ウチの読者は、高級な話はわかりません。上からもいつもそういわれています。ウチは週刊文春や朝日と違って、同じサラリーマンでも、出世できないようなしょぼくれたオジさんが読む雑誌ですから」とまでいった。


「ウチの読者には難しくて分からない」という決まり文句は、どのジャンルの雑誌でもよくいわれる。

もちろん、読者にちゃんと伝わるよう、表現や構成を考え、伝えるべき核心はどこにあって、落とすべき枝葉は何なのかを真剣に考えるのは当然のことだ。とくにぼくは、マンガに関しては専門性の高い、比較的に研究者的な視点で書くことが多いので、余計に気をつけている。
しかし「読者には分からないから」という言葉は、無限の言い訳にもつながる。新しいものの見方、新しい情報、「あたりまえ」と思われていたことを更新するようなこと……などなど、本当の意味で価値のある記事を追求しようという姿勢自体を流し去ることができる。
もっといえば、この言葉によりかかり、どこまでもだらしなくサボってしまうことができるわけだ。つまり、どこまでも読者をナメてかかることができる。
時間も人手も限られた<現場>では、そうせざるを得ないというのも分かる。だから、この編集者個人を糾弾するつもりはない(しても仕方がない)。もし自分が「週刊現代」の編集部にいたとしたら、ある時期までは葛藤しながら仕事をするだろうが、どこかで疲労し、現状を受け入れてルーチンワークをこなしてしまうかもしれない。
たしかに、これは、構造的な問題だ。


しかし、<現場>の仕事を想像してみたうえで言うけれど、だったら、なおさら大谷昭宏氏は立場にあぐらをかいているのではないか。「流されている」のではないか。「サボっている」のではないか。まして、大谷氏は個人の名前で仕事をしているのだ。

だから、彼個人の批判に終わってしまっては意味がないが、批判すること自体に意味がないとは思わない。構造的な問題であると同時に、その<構造>のなかでどうするか? という態度や姿勢の問題でもあるからだ。