書き下ろし原稿で参照するために、柄谷行人日本近代文学の起源』を再読。再読っていってももう何度目かなんだけど、読む度に考えることが違っている。

最初に読んだときは大学三年、進級論文のフィールドワークの最中だった。毎日毎日、山に入って地層の走向傾斜を測ったりサンプルを採取したりしつつ、夜の間に少しずつ読み進めていた。
つまり毎日毎日、通常であればただの「山」や「沢」でしかない場所に分け入り、あまつさえ露頭のスケッチなんかもして、さらに自然科学的な「透明な」言語でそれを記述するという作業をしながら、「風景の発見」などを読んだわけだ。


「地質学的主体」としての自分を身体化するという、ある意味で通過儀礼的なプロセスでもある進級論文(大学三年から四年に進むための論文)のフィールドワークの最中にこれですよ。
そりゃ目から鱗が二枚も三枚も落ちようってもんです。
だって、露頭のスケッチなんてものは、遠近法を用いた風景画よりも徹底して超越的な「視点」をせり出させるもんでしょう。「ただの崖」に、まさにその地層の「起源」を見いだそうとする視線が組織されるわけだから。そうやって私は「地質学的主体」となったわけですが。

ただ、そのフィールドワークのなかで「露頭のスケッチ」を「描く」という行為が大きな意味を持っていたのは確かです。「見たまま」を描こうとすると遠近法に則った「絵」になるが、しかし、ここで求められるのはむしろスキーマティックな「解釈」を含めた「スケッチ」であるという葛藤があった。

その葛藤にはじまる裂け目をですね、「転倒」という一言でブっ叩かれたのです。

この体験がぼくの思考に、どのような影響を与えているかは、まだ自分ではいまひとつよく分からんです。
まーそれも、事後的に見えてくるもんだとは思ってます。





ところで、『げんしけん』『究極超人あ〜る』などのオタサークルものマンガについて、なにかと話題になってるようですが、前々から「理系研究室もの」ってのはアリなんじゃないかと思ってます。いちおう先行事例として『動物のお医者さん』とかあるし、『ああ! 女神さま』も主人公が通っているのは工学部ですから、そうした面はあるのですが。
一定の人数が決まった場所でしょっちゅう顔をつきあわせてて、いちおう共通の目的はあるんだけど、基本的には個人プレイというのがここでの要件です。あと個々人の「才能」の存在とか、成長や理想の探求なんてのも主題としては含ませられますね。むしろ美大モノであるところの『ハチミツとクローバー』とかのほうが近いような気がしますが、どんなもんでしょう。