マンガ批評について

マンガの評論をやっていますが、少し困るというか、どう対応するか考えてしまうのが、職人的にとても上手く演出されているが、その実、食い足りないというか、手技だけで手際よく作られていると感じられたときなんですね。そういう作品が「つまらない」かといえばそうでもない。上手く作られていると感じられるのですから、当然、それなりに楽しく読んでいるわけです。であれば、そのエンターテインされている私、というのを無視して論を進めるわけにもいかない。ここにジレンマが生じます。

食い物屋に例えると、有名店のプロデュースをうたっているフランチャイズのラーメン店とかが近いかもしれません。そこそこ旨いし、それなりに満足もする。でも、そこの店に行くという選択が、まああそこに行っておけば無難だし、というものだったりする。そんな感じです。そういうとき、ぼくは少し敗北感を感じるのですが。


きわめて具体的には、『Dr.コトー診療所』を読んでてそう思ったのです。

ぼくはマンガの批評をする際の態度として、こうした、不特定多数の読者の「満足」を指向した、ウェルメイドな作家や作品をできるだけ肯定しようとしています。また、それがなされてこそ、ジャンルの臨界として位置づけられるような作品群も賞揚することができると考えています。
だから、「ぱふ」で、「ヒットマンガの仕組み」なんていう連載(不定期ですが)もやってるわけで。技術論に還元しきるのではなく、しかしできるだけ技術的な側面をふまえて、表現のレヴェルでの特性を見ていけば、必ず「ヒット」という結果を作品の内実の評価と結びつけて語ることが可能だと考えているのです。いい作品ならば売れる、とは脳天気に思ってはいませんが、それでも、その程度にはいまのマンガの読者はしっかり作品をみているし、市場も辛うじて健全性を保っていると信じています。

しかし、それでも、なんかこう、釈然としないものは残るわけで。

Dr.コトー』の第一巻に即していえば、作中の節目に挿入されるナレーションの、ナラティヴのレヴェルでのわずかな混乱とかに目が行ってしまうのですね。当初、それは誰のものか明示されず、ただ作品世界内部の状況を読者(つまり、テクストの外部)に向かって語りかける、非人称的なものとしてあらわれます。そして、後にそれが看護婦のものであることが示され、さらに看護婦の記名まで登場します。つまり、キャラやコマ構造ではなく、そのナレーションの主体は文字によって指し示されている。ようは、作品世界(あるいは、テクストといってしまってもいいかもしれません)の外部にあった「語り」を、どうにか作中登場人物の「語り」に回収していくという過程が見てとれるのです。その所作に、どこか慌ててそうしたようなぎこちなさが感じられる。

これは、連載の過程での、わずかな瑕疵かもしれない。この程度ガタガタしながら連載が進むということは、別に珍しいことでもなんでもなく、とりたてて目くじらを立てるようなことではないとは思います。ただ、どこか、たんに技術的な失敗に留まらないもののようにも思えるのです。

だから、一方でこの物語が「島」という閉域での出来事を語るものであるのにもかかわらず、そこに瑞々しい共同性を感じさせないこと(いいかえれば、たとえばアメリカ人まで登場させておきながら、「外部」をも描きえていないこと)と、先に述べたような「語り」の場所の不明瞭さを結びつけて批評することの可能性を感じながら、それをすることへの躊躇も同時に感じるのですね。これは何も、作者への配慮とか、そういった「マンガにおいて、批評を成立させてこなかった」抑圧とは、また別の位相のことだと思います。どちらかというと、表象系の批評言説の紋切型を安直に使うこと、あるいはそれで何か分かったつもりになることへの危惧といったほうが実感には近いでしょう。
いかにも「批評」という言説は、ちょこっと勉強して、ある種の「型」さえ分かっていれば、ホントにつるつる書けてしまうんじゃないか。それこそ、会社のビジネス文書みたいなもんなんじゃないか。でもそんなのは「批評」じゃないよなあ、と。