今日でひとまず編集仕事のほうの入稿が一段落。他の仕事もがたがたしながらなんとか進行中。

書評用にいろいろマンガを一気読み。
かわぐちかいじ太陽の黙示録』には少々、肩すかしをくらった感があった。近未来、日本列島がまっぷたつに割れるほどの大災害後、事実上主権を喪失し、分断統治された「日本」の復興を描き、「日本人」としてのアイデンティティを問うドラマ……なのだが、近未来なのに第二次大戦後の「戦後史」の反復という図式からまったく出ていない。何せ、『はだしのゲン』にとてもよく似た読後感を感じたくらいなのだ。

マンガでも、たとえば大塚英志原作・伊藤真美画の『JAPAN』が、主権を喪失し、世界から「日本」という国家が消え去った物語を描いている(他にも、松本零士手塚治虫がそうした作品を描いている)。どうも、モチーフとしては魅力的であるらしい。読者自身に「こんな話、面白いんじゃないかな?」と思わせることが、テーマの魅力になっていることがあるが、「日本喪失」というテーマは、その好例なんだと思う。国際政治のなかでの陰謀論なんかもそうだろう。読者との共犯関係のなかで物語が紡がれていくものだ。
この見方をとれば、『太陽の黙示録』に登場するキャラがことごとくベタベタなのも、(ぼくは少々、鼻白むけれど)逆にいいのかもしれない。しかし、「壊滅した神戸で、アジア人の子どもたちと暮らす浮浪児」の名前が「ケン」ってのはどうなんだろう。いくらなんでも陳腐なんじゃないか。

あるいは、この作品もまた、「戦後史反復」というあらかじめ定まった枠組みのなかで、諸々の、広い意味での「萌え要素」をまとったキャラクター達があれこれ関係しあう(広義の)「萌えマンガ」と読むことはできるだろう。その読みをとえば、表現として、辛うじて擁護しうるものだと思う。こう読まれるのは、作者は嫌だろうし、皮肉な事態だとは思うけれど、ぼくは決して揶揄でいっているのではない。ここにあるテクストとしての快楽をまっすぐ見るのならば、そのような擁護は可能でしょ、といっているだけなのだ。