どうもここ数日、疲れているせいか目が腫れぼったい。
また体にじんましんが出たりしてよろしくない。



熊倉隆敏もっけ』1、2巻を読む。予想以上によかった。正直、見くびっていました。すみません。
ほどほどに可愛い女の子を出して、ほどほどに妖怪や超自然のものを絡ませ、そして、ほどほどにハートウォーミングなお話を展開する、そんなヌルいマンガだと思っていた。そんな予断がいい方に裏切られた。


いかに現在の日常のなかで「物の怪」を描くか? という解釈のレヴェルがまず絶妙に上手い。
描かれるのは、現実と非現実の間に見え隠れする「もの」と、それを見たりできる能力を持った姉妹との絡みなのだが、派手な事件は起こらない。架空と思われる地方都市を舞台にしたお話の運びは、むしろ『さわやか3組』などのNHKの小学生向け道徳ドラマを思わせ、変に生々しいものに感じられる。筆致や演出に抑制が効いていること、そして事件や登場人物の心理の動きを、お話のオチできれいに回収しきることなく、読む者の側に何か余ったものを感じさせることがその所以だ。もちろん、主人公たちが小中学生で、その日常が舞台となっているのは前提だけれど、つまり、お話は終わるが、作中世界の人々の生活は続くと感じさせるあたりが「道徳ドラマ」的なリアリティを持っている(ここでいう「リアリティ」とは、作品世界を自分の日常と地続きのものに感じさせる生々しさだ)。そこに、現実の日常にはいもしない「物の怪」が絡む。必然的に「物の怪」をどう解釈するか? という部分が作品の決め手となってくる。


主人公姉妹の妹は物の怪に憑かれやすい性質を持ち、姉はそれを見ることのできる能力を持っている。物の怪は一般のひとには見えず、彼女らはその特殊な性質のために、祓い師の祖父のもとで育てられている。そういう設定だ。祖父は物の怪への対処法などをよく知り、姉妹を護ってくれるが、かといって全能であるわけでもない。むしろその対処ぶりは、自然災害や疾患などへの民間の知恵に近い。またそこで語られる、伝承や文献を元にした蘊蓄の丁寧な挿入ぶりもなかなか上手い。


ひとに憑き、ときには害をなす「物の怪」たちは、可視的なキャラとして描かれている。そこらに「いる」ものとして描かれているわけだ。だが、物語のメインとなっている、それらの存在が誰かに取り憑いたエピソードでは、それはひとの心の無意識的な不合理の具現として見ることができる。
我々の心は、必ずしも合理的に動いているわけではない。むしろさまざまな非合理に彩られている。感情の激発、自滅的行動、さまざまなアディクション……程度の差こそあれ、他人から見ればほんの些細なことに引っかかって先に進めないことはままある。それは、必ずしも病院に行かなければならないようなレヴェルのものばかりではなく、どちらかといえば日常の「困ったこと」として対処されている。『もっけ』に描かれている「憑きモノ」は、こうしたレヴェルの出来事にほぼ終始している。逆にいえば、無意識下に潜む不合理を、キャラ空間でどうにか可視化したものである。観念の可視化/キャラ化、といいかえてもいいだろう。その意味に限れば、『もっけ』の物の怪たちは、古谷実の『ヒミズ』に登場した一つ目の化け物(主人公の幻覚として描かれていた)や、水木しげるの貧乏神にも近い。そして、これに限っては手塚はなしえなかったものである。確かに手塚治虫は超自然の存在を好んで描いたが、それらは「人間」ではないという設定や外観にもかかわらず、常に近代的な「人間」として描かれていた。
さらにこの見方を反転させれば、『もっけ』の作中でかいま見られる、人間とは独立に存在する物の怪たちの社会も、我々の無意識的なレヴェルを通してはじめてアクセスできる、別のリアリティであるととらえられる。それは「現実」にはいないけれど、確かに「いる」というリアリティである。


実在するが、実在しない、「人格・のようなもの」がキャラクターだ。
だからこそ、マンガをはじめとるすキャラクター表現は、「物の怪」の類を描くのには適している。より正確には、物の怪の類のリアリティを現出するのには長けている。本作はそれを上手く使っている。
なにかこう、過眠症があったり、じんましんが出たり、仕事があるのに一銭にもなんない「はてな」の更新をしたり、原稿がなかなか進まなかったり……とかいうぼく自身の「日常の不合理」に対しても、オレって何かに憑かれてたりして……などと一瞬、考えてしまうには十分な力を持った作品だったのだ。