書き下ろしのために、高河ゆんアーシアン』『源氏』をあらためて読む。


実は『アーシアン』はこれが初読。ほんとうに「いまさら」なので、受験の一月前になって、あらためて高校の教科書を開くような気分だ。やばい。いま読んでみると、予想していた以上に重要な作品であることが分かり、なおさらそう思う。
もっともこれは、この作品の「評価」とは少し違った意味で、21世紀初頭である現在から遡行して「戦後」マンガ史をとらえる際に、とても重要な位置づけの作品であるという意味でいっている。その意味とは、キャラクター図像の担う意味作用と、マンガの、他の構成要素が担うそれとの乖離ということ。こういう考え方を取るとなると、たとえばラカン精神分析の影響下にある映画理論の「縫合」という概念なども参照しなければならなくなりそう(それも、「縫合」との差異において)だが、ここはむしろ、そうした理論的な整合性を高めていく作業よりも、まずは高河ゆんの受容のされ方を追ったほうが得策だと思う。
これは正直に告白するが、いままで高河ゆんは、どうしても「読めない」作家だった。『源氏』にしても『アーシアン』にしても、88年からこっち、何度も購入し、その都度読み進められず売却するというのを繰り返してきた。それが今回、「ストーリーを見るな。表層と形式を見よ」という読みを駆動したところ、すらすら読めただけでなく、案外に面白く感じることができた。振り返ってみれば、それなりに「物語」を読み込んでもいるし、感情も動いているうえに、なんとなく萌えたりもしている(ちはやはかわいいなぁ、とかさ)。
つまり、ぼくはこれまで、かなり盛大に「否認」し続けてきたというわけだ。ただまあ実際、このマンガは、「天使」が地球人(アーシアン)をずっと昔から監視し続けてきたという設定だが、それが50億年前からだったり(地球の形成は約46億年前)、ハワイが赤道直下にあったり(実際には北緯19度)と、萎えポイントが満載で、かつその程度には日常の「リアリティ」とはかけ離れている。ぼくが「読めなかった」のもそこに起因していた。


そこで、高寺彰彦がかつて雑誌「コミッカーズ」誌上で展開した、「ファンタジーふう」マンガに対する批判を検討する。

高寺は「ファンタジーふう」マンガに対して、その「リアリティのなさ」を主に苛立っているわけだが、それこそ高河ゆんなどは、高寺のように近代的リアリズムを第一とする態度からは、噴飯モノとして捉えられるだろう(念のためいっておくと、高寺は固有の作家名、作品名には言及せず批判している)。また、80年代末に高河ゆんが登場したとき、これがひどく「異質なもの」として受け取られたことは、多くのひとが認めるところだ。高河ゆんの作品に魅力を感じたひとにとっては、新しいものであったろうし、反発を感じたひとにとっては、マンガの退廃に見えたと思う。そして、この「異質なもの」の登場という意味で、高河ゆんの登場には、象徴的な意味を負わすことが可能であるように思う。そしてそれを、マンガという表現内での「分岐」としてとらえることも、じゅうぶんに妥当だろう。さらにいえば、キャラクター表現において、「リアリティ」の層が多層化した過程といい直すこともできる。

その意味に限り、高寺の言説は示唆に富む。
彼が近代的なリアリズムにしがみつくことは理解できる。ある程度、共感しうるといってもいい。しかし、それはすでにマンガというジャンルの一部でしかない。そこで(該当の文章が書かれたのが7年前だということは差し引くにせよ)、彼の認識は、近代的な意味では「リアルではない」作品が一定の支持を得ているという事実に対する必死の「否認」でしかないように読める。
この高寺の文章を批判的に検証することで、「リアリティの多層化」について、かなり説得的に記すことができそうだ。実はこの「コミッカーズ」、先日、仕事先のひとが会社のレイアウト替えをしていて出てきたもの。「それ棄てるんならちょうだい」といったところ、以前より探していた号だったというわけだ。


「図書館の妖精」は確かにいるのだな。