「ユリイカ」「文藝」楳図かずお特集


ユリイカ」と「文藝」の楳図かずお特集比較
http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/~hangyo/hobby/kvse04.htm

おおおおおお。実はまだどちらも読んでないのだが、この比較レビューは読みごたえがある。これは早速どちらも読まなければという気に。
実はなんで今回「ユリイカ」はウチに依頼に来ない、と微妙にスネていた(笑)。もっとも、楳図かずおについて書くとなると相当に気合いを入れないといかんので、いまちょっとその余裕がなく、断っていたとは思うけれど。


栗原裕一郎さん id:ykurihara がいみじくも述べているように、一般にマンガ読者の間には「批評的な」読みというのは知られていない。場合によっては、批評に親しんでいるひとでも、ことマンガに対する際には、突然、「ファン」としての読み/語りを優先させてしまうこともある。たとえば「文藝」の「Jコミックファイル」には、そういう面が前に出ていた。

半魚さんは、仲俣暁生id:solar)氏が文藝別冊にお書きになった楳図論「笑いと叫びの間にあるもの」にとくに納得のいかないものを感じたようで、『わたしは真悟』に関する部分、

「ナレーションを『構成上の破綻』としてしまったのも失策。『真悟』論の基本的スタートにさえ立っていない。ていうか、読めてない」

をはじめ、いろいろと疑問を呈している。ぼく個人の解釈は半魚さんに近いのだが、このあたりについてお二人が議論されると、来たる楳図かずお作家生活五〇周年に向けてのすばらしい助走になるのではないかと思いました。とりわけ『真悟』は難しいから、一読しただけのごく普通の読者は大部分、そこまで(何が争点になっているのかまで)到達していないと思われるので(それがごくノーマルなマンガ受容のあり方だと思うし、必ずしも悪いといっているわけではありません。もったいないとは思うけど)。

だから、この意見にはまったくの同感。
議論が重ねられることはとてもいい。その場がどこかにあるともっといい(とりあえず「はてな」はあるわけだが)。しかし、仲俣さんも「マンガ評論」のプロパーではないわけで(「ユリイカ」で楳図かずおと対談をしている岡崎乾二郎だってそう)、マンガの専門になればなるほど、先述したような「ファンの読み/語り」への配慮などによって、「批評」から離れていくという構造は、ここにも見て取れると思う。