なんてこった。もう六月も終わりじゃないか。


某出版社系おじさん週刊誌からコメント依頼の電話。
お題は「萌え」について。小一時間話すが使われるかどうかは分からないという。なるたけ平易に話しているつもりなのだが、しきりと「難しい、難しい」を連発される。基本的な理解の範疇で、こちらと大きな開きがあるためだろう。


一般に「萌え」をめぐる認識のギャップには大きなものがある。
また「萌え」のマーケットのサイズを冷静にとらえれば、それはさほど大きなものではなく、しかし、そのわりには人々の関心は呼び、話題にもされる。また、マンガというジャンルの内部では、ジャンルを浸食する病理のような扱いをされることもままある。つまり、実際よりも大きなものとして取り扱われているわけだ。そして、その限りにおいて、「萌え」は社会的な現象として捉えうる。

このことは、見方を変えればこのように整理される。
ある特徴を備えたコンテンツやキャラクター群があり、一方にそれに強く魅力を感じ、愛好している人々がいる。そして他方に、それに対してなにか嫌悪を憶えたり、関心をもつ一方で同時に忌避したり、殊更に無視しようとする人々がいる。もっとひらたくいえば、「萌えキャラ」やそれを基盤にしたコンテンツの特徴とは、愛されたり憎まれたりするということになる。
つまり、プラスにせよ、マイナスにせよ、強い心理作用をもたらすものとして存在している。
だから、「萌え」を考える際には、ただそれを愛好しているひとのことだけをみたのではだめで、それを嫌悪したり忌避したり、殊更に無視するひとの挙動もみなければならないということだ。その「否認」の身振りも含めて、「萌え」は理解される。それは、とても親しみ深いものでありながら、同時に「おぞましいもの」という一見、矛盾した両面を持っている。だからこそ、思考の対象ともなるし、それを説明する際には、とかく抽象的・観念的な語りが呼び込まれる。また、そのことによる可能性はあると思う。


ただ、こうした認識のギャップを超えて、あるいはそのギャップをも抱え込んで、「萌え」を分かりやすく説明するのは難問である。
というか、上手にできる人っている? 「……キャラをみて『萌え〜!』となるってことなんですよ」じゃ何も通じないし、そもそも「萌え」ってのは感情なのか、もっと身体的な「情動」なのかもよく分からない。