浅野いにお、文化にまつわる「当事者性」について

浅野いにお『素晴らしき世界』2巻を手にした青年を電車車中にてみかける。なに? 2巻が出たのですか!? 不覚にも知らんかった。いつもbk1マンガ新刊情報メルマガを頼りにしているのだが、どういうわけか昨日づけの入荷分にはこの2巻が入ってなかったのだ。サンデーGXコミックスからの新刊は『新暗行御史(8)』のみ。日々、具体的に入荷した分をまとめたリストのようだから、なんかの理由で『素晴らしき世界』は入らなかったのかもしれない。しかし読みたい。読みてえ。メッチャ読みてえ。
やはり、好きなマンガを発売日に新刊を買うことのドキドキや嬉しさには、本当に替えがたいものがあると思う。


一方、ぼくはマンガ(に限らずサブカルチャー全般)の受容においてその当事者性というか、現場に参加していることをむやみに特権化しちゃいけないよな、と常に思っている。ここでいう「当事者性」には二つあって、ひとつはいまぼくが書いたような、それが新刊としてリリースされた、その場に居合わせたという幸福のこと。もうひとつは、浅野いにおが例なので明確にしやすいのだけれど、彼の作品に書かれているような、「いま」を感じさせる鮮烈な感情と、読者自身が置かれた状況や、自分の世代感覚のようなものがシンクロする体験ということだ。
ぼくは前者に関してはたしかに「当事者性」を持っていると思うが、後者についてはいささか心許ない。それなりに歳をとっているからだ。すでに青年の自意識からは遠くなりつつある。もっとも、それでもぼくは浅野いにおの作品は「青臭えなあ」と思いつつも素晴らしいと思うし、ときに驚嘆もすれば評価もしている。ただ、それは自分と作品世界をつないでの「共感」とは違うところで生じている。自分の「読み」がそう変わってきていることを、自分でも少し寂しく思うけれど、そう悪い変化でもないと思っている。


実はこうした「当事者性」の話題ってのは、遠いところで今日の仲俣さんid:solarの日記ともつながってくることなんだと思う。仲俣さんはネルソン・ジョージ『ヒップホップ・アメリカ』という本の感想から、黒人音楽などを例にとり、ある固有の集団の内部で営まれてきた表現を、資本の側がある意図で人工的に「越境」することを批判している。

http://d.hatena.ne.jp/solar/20040519#p1

ある社会階層や集団が生んだ固有の文化(subculture)について、その外にいる人間が正しく理解することはとても困難だということがよくわかる。もちろん、他の社会集団内で享受されているsubcultureを内側から実感的に理解できないからこそ、外から激しく恋焦がれるということはあっていいし、そのことが新しい表現を生んでいくことだってある(黒人音楽に心底焦がれた白人たちが奏でたロックンロールのように)わけだけれど、恋焦がれもしないで、なんだか知らない利権のために「文化」を扱うことがいかに不潔なことかを、あらためてネルソン・ジョージの本を読んで思った。

これはつきつめると、文化の流通可能性や交通といったものが、いかにすれば健全に維持されるのかとか、それが相互に影響しあい、全体としてダイナミックな進展につながるのかとか、そういったことに収斂する話題なんだと思うけれど、ここであまり「当事者性」を強調するのはあまりよくないんじゃないか。やや極端な言い方になるけれど、ある表現(たとえば黒人音楽)があったとして、それを受容する「資格」のようなものを厳しく問う姿勢ってのは、やはり「人工的」なのではないか。それは資本の側が「越境」させるのと同じ程度には、文化の流通可能性を促進もし、同時に抑圧もするような気がしている。

仲俣さんの「恋焦がれもしないで、なんだか知らない利権のために「文化」を扱うことがいかに不潔なことか」という意見には共感する部分もあるのだけれど、反面、ぼくはそれを「不潔」という言い方で断罪する気にはなれない。なんというか、すごく単純に「なんだか知らない利権」という程度の意識で「文化」を取り扱ったって、たいがいは上手くいかないと思うからだ。
これは米国の黒人などが置かれた状況に比べれば、はるかにヌルい日本の状況を前提にしていっているので、その分をさっぴいて読んでほしいのだけれど、こと文化芸術、表現の世界においては、その受容者の心にはいつも「飽きる」という機能がついていて、その機能はとても気まぐれに作動する。かてて加えて、我々はとても新しモノ好きな反面、ひどく変化を嫌う。もっといえば、ことサブカルチャーの領域には「すねる」「ひねくれる」というセンスも大きく関与している。これはみんな、自分の胸に手を当てて考えてみればよくわかるだろう。

「商業主義」でも「資本」でも「仕掛け」でも「仕込み」でもいいけれど、そういった「人工的」なものは、こうした心理作用の複雑さを見落としがちなんじゃないかと思う。あるいは、その複雑さには対応できないとか。だから、戦略は短期的となり、たいがいのことは上手くいかない。そこでむしろ、倫理的な判断から離れ、ある程度単純化して考えたほうがいいんじゃないかという気がしている。それは「不潔」とか「清潔」とかいう話ではなくて、どちらかというと、単に頭や手際が悪いという種類のものだと思う。

つまり、批判の対象は限定されるべきで、そこに「あんたらは当事者じゃないんだからオレらの表現を享受するな」という排除の意識が入るこむ隙はなくしておいたほうがいいんじゃないかということだ。



たとえば、ぼくには、80年代マンチェスターの労働者階級の少年の気持ちはわからない。でもぼくはスミスやジョイ・ディヴィジョンを愛する。しかもそれは、それこそ浅野いにおのマンガに出てくる、試験のマークシート用紙を「FUCK」という字の形に塗りつぶす話とかとひどく近しいものとして捉えている。こうした「誤読」は避けられるべきではない。
これは仲俣さんのいう「恋焦がれる」というのと重なってくる感情だとは思うけれど、しかし、それにしてもいろいろな形態が許されていていい。

また同時に、「これは搾取だろう」という反抗の姿勢があったとしても、そのうちに少なからずの「逆恨み」が含まれているかもしれないという自覚は持っておいたほうがいいと思う。
別にぼくは「コンテンツ産業振興」やらを進めるこの国の行政を擁護しようという気はない。やるんだったら上手くやってくれ、と思うばかりだ。だから批判すべきは批判すべきだし、評価すべきは評価すべきだ。であるからこそ、一面的な否定につながるような考え方は、あまりよくないと思っている。