シンポジウム「まんが文法を知るために」

昨日は初台にあるICCへ、シンポジウム「まんが文法を知るために」を聴きに行った。パネラーは夏目房之介さん、筑波大学の笹本純さん、千葉大学の中澤潤さん、そしてNTTコミュニケーション科学基礎研究所の大野健彦さんというメンバー。

マンガを見開き単位で被験者に見せ、視線の動きを記録して、これまで経験的に知られてきた「マンガにおける視線の誘導」が実際にどうなっているかを実証しようという試みだ。昨年、秋に行われた実験の結果をもとにしたディスカッションで、たいへん実りある内容だった。実験そのものはまだ端緒についたばかりで、夏目さんの言葉を借りれば「やらなければならないことが100あるとしたら、そのうちの3〜5に過ぎない」ものではあるのだけれど、今後に大きく期待をさせるものでもあり、議論の足場となるという意味でも、たいへんに意義のあるものだったと思う。
実験に用いられた作品などについては、id:AYSさんの日記(http://d.hatena.ne.jp/AYS/20040314)に詳しいので、そちらを参照していただきたいのだが、作品の選択は概ね妥当だったと思う。少なくとも、よく検討されたものである。
ただ、少女マンガ作品(葉鳥ビスコ桜蘭高校ホスト部』)について、まずそれが一般的ではないのではないか? という疑問が示されていた。その作品は、青年/少年マンガから最も隔たっているという理由で採用されていたのだが、そうしたことについての疑問もあった。またぼくにしても、一般に「読みにくい」とされている萌え系オタマンガを加えてほしいと考えていた。つまり、作品の選択が、マンガ読みにとってはもっとも議論を呼ぶ点であったといっていいだろう。これは、今後、同様の実験がされる場合にも常について回ると思われる。
もちろんそれは「マンガ読み」にとって、という留保がつけられるが、議論が呼び込まれたポイントが作品の選択についてだということと、とりわけそれが<非・少年/青年マンガ>をめぐっていたことには、意外に射程の深い議論が可能となるヒントが隠れていたように思う。いくつかの論点が考えられるのだが、まずは、私たちがそれぞれに持っている「読み」の固有性(つまり、同じくマンガを読んでいる隣人との差異を見ること)とどう向き合うか、という問題に行き着くのではないかと思っている。
また、今後、我々が「マンガの文法」を語る際、少年/青年マンガ的なもの(このシンポジウムの結果を踏まえていえば、視線の誘導性が高く、多様な視線の動きをあまり許さず、リニアに出来事を語るもの)を軸にするのが効率的であると思われるのだが、他方でそれは、男性中心的な合理性を特権化するものと捉えられ、たとえば「ファロゴセントリックなものである」との批判も呼ぶだろう。しかし、我々はとりあえず、ファロゴセントリックである必要があるのではないか? マンガという表現を見通す視点も、使える言葉もない状態がこのまま続くよりは遙かにましなのだから。

もちろん、少年/青年マンガ的なものがマンガという表現の中心にあるということを自明視してはならないのだが、しかし、まずは何もないところに議論の足場を作ることが先決だろう。「マンガの文法」が明確に言語化された瞬間に批判され、相対化されたとしても、その相対化の営みを可能にしたという意味において、我々は一度、少年/青年マンガ的なものの解析からはじめてみるべきではないか。少なくともそれは比較的に単純で、解析しやすいものである。

さて客席はざっと見て40人超、まぁ7分の入りってとこか。それにしても知り合い率が高く、NTT出版の担当植草君は今回のシンポに大きく関わっているから当然として、藤本由香里さん、現代マンガ図書館内記稔夫さん、マンガ学会理事の秋田孝宏さん、id:gonzapさん、id:AYSさん、exガイナックスの某さん……ほか、いつも漫画史研究会でお馴染みの顔ぶれがそこここに。

知り合いがいっぱい来ているってことは、ぼくにとっては便利がいいのだけれど、反面、もうちょっと一般の関心が高くてもよさそうな気はした。その意味で少し寂しいものがあった。やはりマンガの「読み」についての基礎研究となると、たいへんコアな話題と受け止められてしまうのだろうな。

まあ実際、コアな話題ではあるのだが、ここが難しいところで、ことマンガに関わる話題となると、自分が習慣的にマンガを読んでいるひとは、自分の「読み」をごく自然な、当たり前のことと受け止め、その透明性を疑おうとしない。ゆえにこうした実証研究には関心を払わない(ひどい場合には、「そんなことをしても仕方がないだろう」式の否定が働く。さらにひどい場合には、「そんなものは疑似科学だ、アカデミックな装いをまとっているだけのまやかしだ」などの感情的な罵声すら考えられる)
他方、マンガもメディアの一形態であり、また日本においてはじゅうぶんにメジャーな存在であるにも関わらず、一般的なメディアの受容形態のひとつとしてこれをとらえるという方法論的な視座は、あまり認知されていない。

かくしてマンガは、人々の知的な関心の領域において、エアポケット的な位置に落ち込んでしまう。これは、ひょっとするとキャラクター表現全体に敷衍できることかもしれないが、デジタル技術の関与がアニメやゲームに比べて少ない分、それが際だってみえる可能性は高い。いずれにしても、もう少し関心を呼んでもいい内容だと思う。
事実、実験データを取る際、被験者のひとからは「マンガは日本を代表する文化です。しっかり研究してください」などのメッセージが寄せられていたという。だが一方、被験者を買って出たひと(数百名におよぶ)で、このシンポジウムを聴きにきていたひとは、わずか数名であった。「マンガ」そのものへの関心の高さがある一方、それが「私の読み」への関心にのみ回収されていく構図を考えてしまうのだが、それはうがちすぎだろうか。

この関心の分離は、先日の日記に記した「反映論vs表現論」という二項対立がマンガ論において成立してしまうことともつながってくる。そこはまだ「考え中」なんだけれど、マンガに向かう知的な関心の、領域の分離という点での共通性ははっきり見えている。


終了後、ソバ屋でパネラーの方々と上記の皆さんほかの方(gonzapさんは別件の用があるというので別れた)と軽く飲みに。面子が面子だけに充実したマンガ論議に発展。その場でよしながふみ『愛すべき娘たち』を、既読のひと(夏目さん、藤本さん、担当植草君、ほかの方)が全会一致で絶賛していたのが面白かった。いや、実際、あれは珠玉でしょう。