誕生日・櫻井欽一

goito-mineral2004-03-02

今日で37歳になります。まだ右手が上がらないどころか、背中や肩がどんどん痛くなってきている。そうか、30代後半ってのは「老い」を自覚する最初の年代なのだな。そこで、この10年の来し方を考えることにする。


10年まえ、ぼくは浦沢直樹氏のアシスタントをしていました。前年、会社を辞めてそこに入ったわけだが、その秋に櫻井欽一氏が急逝したというのが、その後の人生に大きな影響を及ぼしていると思う。
櫻井氏は、神田の鳥料理店「ぼたん」の主人にして、大鉱物コレクターであり、貝コレクターであり、独学で理学博士号を取り、江戸川乱歩賞の選考委員であり……という、旦那芸の極みというか、およそ最後の「日本近代旦那」だった人物である*1。そしておそらく、ぼくは彼に私淑した最後の世代のひとりなのだ。
「私淑した」といっても、それはぼくの側の勝手な思い入れで、櫻井先生の側からは自分の周囲にあまたいる鉱物趣味のひとのワンノブゼムにすぎなかっただろう。もっと上の世代のひとのように、濃厚なつきあいというのはしていない。実際、ぼくは先生主催のサロン的な同好会「無名会」の例会くらいにしか顔を出さず、個人的に先生のところに伺ったのは二度しかない。その程度なのだ。しかし、それでも櫻井先生の存在は大きかった。


先生を訪問するときは、「ぼたん」の裏側になる玄関から入り、帳場でお店をみている先生の背後からお話をするのが通例だった。先生は忙しくお客の注文を受け、その合間にこちらの応対をするのである。その情報処理の速さと的確さといったら、常人のそれではなく、「……で、何の話でしたっけ?」などということはまったくなかった。
ぼくがその帳場の奥に通された二回のうち、最初の一回が就職で東京に出てきたときで、そして次が会社を辞めるときだった。浦沢先生(いまは批評家という立場上、「先生」をつけるのはどうかとも思うのだが心情的には仕方ない)のところに入るので、今後はあまり繁く来ることはできないので挨拶にあがりました、というわけである。93年4月のことだ。それが、櫻井先生とお話をした最後となった。
そのとき、当時は未発表だった三重県菅島産の Arupite を持参した。現在でも地球起源での産出は世界でこの産地に限られるという、超稀産鉱物である(原記載標本は隕石起源)。先生は「これは大切なものだから」といって帳場の横の引き出しに大事そうにしまい、外に出て、なんだったかお寿司か何かをごちそうしてくれた。そのとき、自分の後、鉱物趣味の中心になってくれるのは誰か、堀さんですかね、と珍しく弱気なことをいわれたのが印象に残っている。
櫻井先生が亡くなられたのは、その年の10月だった。
ちょうど、『YAWARA!』が終わって『Happy!』がはじまるかどうかくらいの時期だったと思う。とすると仕事は『MASTERキートン』だったのだろうが、アシスタントに行って数日ぶりに帰宅すると、留守電が10件以上入っていた。何人もの人から伝えられた先生の訃報だった。


そして翌々年の6月、国立科学博物館で櫻井コレクション展が開催された。標本のほか、先生のノートがガラスケースに入れて展示されていた。万年筆で書かれた、分類順に整理された標本リストだったのだが、欄外から矢印をのばして挿入されている項目があった。
「藍ニッケル鉱」と書いてある。この和名の鉱物はない。藍鉄鉱のニッケル置換体という組成からの類推で、その場で先生が作られた名前だろう。Arupite *2である。つまり、ぼくがあのとき帰ったあと、記入されたものなのだ。そのページが、ちょうど開いてあったのだ。
ああ、櫻井欽一という人間はもうこの世にはいないのだな。もう、どこに行っても会うことはできないのだな。と、そう思った。気がつくと、自分でもびっくりしたのだが、目から涙がぱたぱたぱたっと落ちていた。


櫻井欽一というひとの評価については、これから定まっていくのではないかと思う。古手の鉱物コレクターの間には、先生をむやみに神格化するひとがいたりする。たしかに櫻井先生は偉大な方だったが、しかし功罪のうちの「罪」の部分がないわけではない。そもそも「コレクター」なんていう業の深い人種の巨魁である。業のでかさも並大抵ではないだろう。実際、いろいろなエピソードが、とてもエキセントリックな人物であったことを伝えている。
しかし、戦前のいいお家に生まれ、粋を身につけ、多才で、パワフルで、カリスマ性があり、面倒見がよく、でも他人を振り回す困ったところもあって……といった具合に、櫻井先生のキャラには、手塚治虫とかぶるところが多々ある。「無名会」でも、興に乗ると鉱物以外の粋な蘊蓄や、ミステリの話などあっちへ、こっちへと話題が振れたものだ。そのなかで先生が若い頃購読していた「新青年」の読者投稿欄の話が出たことがあった。外来語を日本語でうまく言い換えるというお題に読者が答えるというもので、「カレーライス」を「黄辛飯」とかいった、そんな他愛のないものだったのだが。


そういえば、90年代なかば、神田の古書街で「新青年」の揃いが出たといって話題になったことがあったそうだ。それはたぶん、櫻井先生の蔵書に由来するものだろう*3


*1:一般的なプロフィルについてはここ参照 http://research.kahaku.go.jp/geology/SAKURAI/SAKURAI.HTM

*2:『日本産鉱物種 第5版 2002』(松原聰・鉱物情報)では、「アループ石」という表記となっている

*3:先生の蔵書そのものが市場に出たのではなくとも、誰かが所蔵していたものと交換で市場に出た可能性はある。いずれにしても、時期的な符合はある。