私の知る御曹司はまじで働いたことがないようです。

先日、某編集部に電話をしたら、旧知のひとが出た。いま何の仕事してるのとかの話になり、「いや、オレもし大金持ちの子に生まれてたら働いてないよ」というと、「オレもそうですよ」との返答。
この手の「もし」に真剣に考えたらもクソもないのだけれど、本気で大金持ちの子に生まれていたらいたで、好きなことを続けていて、そのさまはひどく勤勉に見えていたに違いない。そして、それでも「ぼくは働いたことがない」とかいってるんだろうな。


こういうことをいうと、また無用の反発を買いそうだが、貧乏とか劣等感とかを起爆剤に奮闘するっていうこと自体はいいと思う。だけど、それがないと駄目だというのは間違っている。貧乏もなく社会的にも恵まれているけれど、内的な正体不明の根拠で何かをやってしまうというのが、むしろ本物なんじゃないだろうか。たしかに手塚治虫は少年時代、いじめられていたかもしれない。しかし、彼はそれを補って余りあるほど恵まれた環境にいたわけだし、また過剰なまでに自己の表現に向かっていったのだから。
内的な正体不明の根拠というか欲望というのは、多かれ少なかれ、誰にでもあるものなんじゃないか。しかしそこで、自分が何か表現に向かう、ものを書く、その根拠を自分と周囲の欠落にしか求められないというのは、やはり悲しいと思う。


自己の内的な根拠をまっすぐ見ることができず、懸命に「欠落」を探すひとのなんと多いことか。そんなひとは、ときに自作自演的に「欠落」を演出することすらある。しなくてもよい喧嘩、不可思議な失敗、勝手な挫折感、逆恨み……。彼は不幸なのではない。自身の幸福を自らの手で握りつぶしているのだ。