バブルのころの思い出。

中央大学現代視聴覚文化研究班班長の日記
http://d.hatena.ne.jp/han-cho/20031114#p2
が、「バブル期の暮らし」について触れていました。
http://sagisou.sakura.ne.jp/~sakuchin/kazumi/04/79.html

そこでぼくも、バブルのころのことを書こうと思います。ぼくはサラリーマンでしたが、ちょっと役所的なテイストのある会社で、組合も無闇に強いものだから、それほど派手な話はありません。それでもそれなりにバブリーなことはありましたよ。ジュリアナ東京で女の子三人に囲まれてにっこり、という写真も残ってます。フロアにはカメラ持ち込み禁止だったんでロッカールームでの撮影ですが、あれも歴史的資料だなー。

  1. 就職活動時、説明会に名古屋から上京するだけで、交通費2万円は必ずもらえた。就職するつもりはないのに、交通費もらう目的でだけ「ここも入れとくか」で資料請求とかした企業もあったり。で、帰りに渋谷のZEST(輸入レコ屋)でお買い物。当時、不忍通りにあった標本店、凡地学研究社にも寄ったりした。そこにいたのがid:hesoなのだが、先方はおぼえてなかったという罠。
  2. 「伊藤くんの実家、土地の実勢価格で2億くらいにはなるだろ。投資してくれたら元金保証で11億になる話があるんだけどな」というオソロしい儲け話をされたことが。岐阜県某所にリゾート開発計画があり、そこの土地をどうにかこうにか、という内容で、半分はネタだったと思うけど、あれ絶対、半分はまじだった。
  3. ぼくの最初で最後の海外出張は、顧客と支社のひとと同行して、アメリカ・カナダ観光二週間、というものだった。いちおう、向こうの同業の視察も入ってたのだが、コースに「ナイアガラの滝見学」とか「ニューヨーク観光」とか「フットボール観戦」とか入ってるという。課長のかわりに行かされたのだが、社内では「お小姓旅行」(大名は顧客のひとだから)といわれてましたよ。ようするに接待旅行だったと思うんだけど、あのお金はどこからの支出だったんだろう。この出張のせいで、チケット(それも最前列)をとってあったモリッシーの来日公演には行けませんでした。
  4. 当時、地域開発系の企画や提案ってのは、とにかくデカいもの、イケイケなものが良しとされていた。具体的に何をするっていうのが決まってなくても、なんかその気にさせるような提案資料が必要なときがあって、ぼくはそういう空虚な文書をつくるのが上手かった。会社を辞めます、というときに慰留されたのも、そういう企画書の類を作れる社員がほかにあまりいなかった、という理由だった。当時の大規模リゾート施設の提案資料とか、いまとなっては歴史的資料だろう。作ってるほうも半ワライで作ってたし。直属の上司との間では、そういう資料を作ることを「忙湖捏造」と呼んでいました。「忙湖」=「忙しい湖」=busy lake=美辞麗句w。
  5. さすがにこれは差し障りがあると思うので、詳細は伏せるけれど、当時作られた巨大建築の企画に関わったひとに、元・新左翼で革命を志したあげく、内ゲバの泥沼に入り、内的には右に急転回し、その後、公安のスパイになったというひとがいた。ある地方に出張したとき、このひとと同行してたんだけど、飲みに行ったらこういう昔話になってビックリ。ついてきた秘書の女性も「こんな話を聞くのは初めてです」といってた。その前に関わった大規模リゾートの案件では、ぼくらのチームに、二人も「本気で暴力革命を志したひと」が入っていた。そして、おそらくお互いにそのことを知らない。たぶん、両方からその話をきいたのはぼくだけだと思う。

ここから敷衍して結論づけるのは危険だと思うけれど、バブルの頃のむちゃくちゃな大規模再開発や、それまでの日本の風景を破壊するようなヤケクソの建築の多くは、実は敗北した全共闘世代のリベンジだったのだ。