野口文雄『手塚治虫の『新宝島』』

小学館クリエイティブ様よりご献本いただきました。いつもありがとうございます。
いま時間的な余裕がないのでまだざっと読んだだけですが、貴重な図版が多数掲載され、資料的にたいへん充実していて参考になります。入手の困難な終戦前後のマンガの実物を多数見ているひとにしかなしえない、労作です。


手塚治虫の「新宝島」その伝説と真実

手塚治虫の「新宝島」その伝説と真実



反面、すべてが『新宝島』がいかに画期的であったかの検証に終始しています。また、文体に熱がこもっていて、ひじょうに情緒的です。たとえば、著者は『新宝島』の単行本が「戦前の単行本に比べて『新宝島』は、コマの横幅を一センチ」ほど縮めていると指摘します(31ページ)。それについて著者は積極的な意味を見い出すのですが、その語りはこんな調子です。

新宝島」一冊のみが、意図して、縦幅は標準のままで横幅だけを一センチ縮めてあるのだ。
 この一センチのもつ意味とは、いうまでもなく、縮まることによって、より速く上から下に目を送れることになり、無意識に、映画を観るようにコマを追って。一気に読み終えてしまうのだが、これがもし、もう一センチ縮んでいたら、戦前の常識になじんでいる読者は、見た途端に違和感をもってしまうだろう。ギリギリ一センチというところに手塚の計算の妙があったのであり、それによって、作品の映画的感覚はよりいっそう鮮明なものとなって、大勢の読者を驚嘆させ、魅了し、虜にした!
 そうでなくて、どうして、多くの漫画家や作家をはじめとする著名人たちが、「新宝島」との出逢いを、熱烈に書(描)き語り継ぐことがありえようか!?
(32ページ)



……熱いです。
もし横幅のみを一センチ縮めるフォーマットが、このように強い効果をもたらしたのであれば、それが「新宝島」一作で絶えてしまい、その後に継承されなかったのはなぜだろうと思うのですが、それは脇に措いて、コマの横幅という、マンガの具体的な形式への着眼はいいと思います。まさに当時「新宝島」を読んでいる(「読んでいた」ではありません。為念)子供の「読み」への想像力を感じさせるからです。


このように、著者のひどく情熱的な語りに貫かれている本なんですが、そこで中心的概念として用いられている「映画的」という語について、では「マンガにおいて『映画的』とはいかなる意味を持つのか」という考察を経た形跡はあまり見受けられないようです。
まだ精読していないので、この程度の印象を記すに留めますが、竹内オサム宮本大人伊藤剛の(ヨコタ村上孝之も入りますか)、「同一化技法・モンタージュ型」についての議論に触れられていないのはなぜだろうと思いました。
また、宮本大人が『マンガと乗り物』(霜月たかなか編『誕生! 手塚治虫』所収)で展開した、内務省表現規制などの影響により、終戦後、当時の子供読者には、あたかも手塚が何もないところから突然現れたかのように見えたのではないかという考察も参照されていないようです(まだ全体を精読していないので、もしどこかで触れられていたら申し訳ありません)。



いずれにせよ、熱心なファンの方がまとめたものという意味ではいい本だと思います。話があっちに飛び、こっちに飛びというのも、おじいさんが孫に語るのを聴くかのような楽しさがあります。
中野晴行さんが、「『酒井七馬伝』に関する反論も資料を多数駆使しており面白い。ほとんどの手塚ファンにとっては野口さんの論の方に一票だろう」(http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=67936&log=20071129)と言われているのも気になります。

謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影

謎のマンガ家・酒井七馬伝―「新宝島」伝説の光と影



この本を「研究書」というべきではないでしょう。「論文」を僭称した竹内一郎本のようなさもしさはなく、語る対象に対する誠実さ真摯な熱情が感じられます。であるがゆえに、これを「研究書」として扱うことにより、いらぬ誤解や批判が招かれることを怖れます。