竹内オサム『マンガ表現学入門』の読み方

書き下ろし原稿直し、最後の詰め。
ウエクサ君、あと一日ください。
ぜんぶで400字詰め原稿用紙換算で約500枚分になりそうです。


ジャック・オーモンほか著の『映画理論講義』を読み読み、あと『文化理論用語集 カルチュラル・スタディーズ+』を参照しつつ、作業を進めています。『文化理論用語集』は、もはや卑怯の域でアンチョコとして使えるスグレものです。とかいってると、「あんなの使ってるなんて程度が知れるね」と、イヤな文科系院生(でも実態はワナビー)あたりからツッコまれそうで怖いのですが。


映画理論講義―映像の理解と探究のために

映画理論講義―映像の理解と探究のために



文化理論用語集―カルチュラル・スタディーズ+

文化理論用語集―カルチュラル・スタディーズ+



以下、6月27日づけ日記の続きです。
はてなブックマークhttp://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20050627%23p1


こういっちゃなんだけれど、竹内オサムさんがしているような杜撰な言葉の使い方は、単にみっともないと思います。さすがに既存の術語に関しては、専門教育を受けている方ですから、ちゃんとしていると思うんですが、彼の著書は「ちゃんと読もう」と思うと実は結構難解なんですよ。竹内さん自身はそのつもりはないと思うけれど。
なぜ「難解」かっていうと、新語が説明なく出てくるし(とくに「ナントカ意識」って語が多すぎ。「視点意識」「絵画意識」「コマ割り意識」って何?)、またその意味も一定しない場合がある。それに、現在のマンガ表現に対するよく判らない認識も散見されます(たとえば、「ここ二〇年あまりのあいだに、「不要な捨てゴマ」がやたら増えるようになった。ページかせぎとしか思えないようなものが多数……」『マンガ表現学入門』190〜191ページ*1)。
いずれにせよ、この最新刊にしても、一見、緻密な論の展開にみせていて、実は結構杜撰な本です。部分的にはいいことをいっているところも多々あるし、せっかく重要なことをいおうとしているのに、本当に勿体ないことだと思います。


だからぼくの問いは、それでも彼が「手塚治虫研究の権威」として見られてきたのはなぜか? という方向に向かってるんですね。一応の答えは、竹内さんが「マンガ読者」の「常識」とされているもの(たとえば、『新宝島』は、決定的に革新的であって、過去との連続は考慮される必要はない。そして、その革新性の根拠は「映画的手法」の導入に求められる、など)にとても忠実であり、ある一群の読者にとっては、たいへん口当たりのよい、自分たちを肯定してくれるものに写るからではないか? というものだったりします。
もう少しいえば、竹内さんはそうやって「必要とされてきた」ってことですね。


でもねえ、もうそういう時期もいい加減、過ぎているんじゃないかと思うんですよ。
若いひとにそのへんを聞いてみたいものです。


だから、竹内さんの言説を丹念に追うことで、「常識」がどのように形成されてきたか、あるいはそこにはどんな欲望が隠れているかを焙り出すことができるとは考えています(具体的には、書き下ろしの中でやっています)。
若い論者には、この本をどうきちんと批判できるかで力量が試せると思います。
その程度には、捨て置いていいような、取るに足らないものではありません。
というわけで、リンクはきちんと貼っておきます。


マンガ表現学入門

マンガ表現学入門

*1:ここで竹内オサムのいう「捨てゴマ」とは、「物語展開のカナメではないコマ」である。逆に「カナメとして欠かせないコマ」は、「決めゴマ」と呼ばれる。この用語の使い方自体、実際の編集や制作の現場とは異なっており、その意味でも問題があるのだが、もっと大きな問題なのは、竹内が「捨てゴマ」「決めゴマ」と読んでいるものの意味が、いまひとつ不明瞭なことである。同書ではあだち充陽あたり良好!』をテキストに意味するところを例示しているが、そこでは野球の試合シーンで、試合に直接関係する出来事を描いたコマを「決めゴマ」としている。であれば、ここ10〜15年のマンガ、とくに青年マンガのトレンドは、むしろ「決めゴマ」ばかりが残り、大ゴマを取ることによってページあたりのコマ数が減っていることにあるのではないか。いずれにせよ、竹内が「不要な捨てゴマ」がやたらにあるマンガというものを明示するべきだろう。特定の作品を批判の対象として例示するのがはばかられるのかもしれないが、これでは竹内の立論自体に信用がおけなくなる。実際、一昨年「日本児童文学」に竹内が書いた『操りキャラの流行』なる小文をみてもそうなのだが、もっとも合理的な解答は、竹内はすでに現在のマンガをあまり読んでおらず、想像でものをいっているということとなる。『操りキャラの流行』は、典型的な「つまらなくなった」言説であり、マンガに「骨太なドラマ」がなくなったとしている。そう考えた理由は示されていない。