浦沢直樹『PLUTO』にエプシロンが登場していました。

PLUTO (2) (ビッグコミックス)ビッグコミックオリジナル」発売日には気づいて速攻ゲットしていたのですが、ここで言及するタイミングを逸していました(ちなみに、同号には一昨日の日記で触れた石塚真一の作品も掲載されています)。
女性型ではありませんでした。ちゃんと中性的でありつつ「おじちゃん」という外観。これなら十分、ファリック・マザーもいけると思います*1
もしエプシロンを女性にしちゃっていたら、小学館の忘年会で「先生、逃げたでしょ」と耳打ちして、これ以上ないくらい嫌な元アシになってやろうかとも思っていたのですが、やはりこの程度のことはクリアされてしまっていました。
もっとも、最初っから「女性化」は考えられていかなったのかもしれません。


浦沢版「エプシロン」の画像は載っけないでおきましょう。
やはり手塚の記号絵ならではのエロティックな面は捨象されていました。だからといってダメというわけではもちろんなく、我々が見るべきはその「差異」にあります。
この差異は表面的な描画コードの違いや、作家個人の資質の違い(たとえば、クィアな手塚、ヘテロセクシャルな領域に留まる浦沢、といった)に留まるものではなく、ここから導かれる距離にこそ、私たちが記述すべき「マンガ表現史」が横たわっていると考えられるからです。


あるいは、エプシロンのこの造形(どこか、中性的なロックスターを思わせるところもあります)には、マンガの「外部」を志向したものがあるのかもしれない。これは予想ですが、『PLUTO』というテクストに対しても、エプシロンというキャラはテクストの外部から挿入されたかのような「裂け目」として機能するのかもしれません。少なくとも、そうした期待をさせるものはあります。

*1:浦沢直樹に批判的な斎藤環さんは別の意見だと思いますが