『PLUTO』2巻を購入/「父」と「ファリック・マザー」はどう描かれるか?



PLUTO (2) 【豪華版】 (ビッグコミックススペシャル)

PLUTO (2) 【豪華版】 (ビッグコミックススペシャル)



今日発売の豪華版、アトムきゅんがいっぱい出てくる第二巻。かなり萌えますね>アトムきゅん。おまけとして「アトムシール復刻版」と「PLUTOシール」がついています。パッケージもオリジナルのアトム発表当時の「明治マーブルチョコレート」の復刻。なんかパッケージを開けるのがもったいなくてそのままにしています。


このところの浦沢直樹は、雑誌連載で読むのと単行本でまとめて読むのとで印象がずいぶん違うように感じていますが、今回もその例に漏れず。単行本でまとめて読むほうがぐっとコクがあるんだよなと。


雑誌連載時に気づかなかったことに、これから出てくるであろうオーストラリアのロボット、「エプシロン」の姿があります。158ページにチラっと顎まで出ている。これをみると女性型のようですね


ところで宮本大人氏は『PLUTO』の今後について、天馬博士がどう描かれるか? ということに着目しています。「父」をどう描くか? という観点です。それは『YAWARA!』での父の描かれ方、最初から完成している子ども=成長しない子どもと、それに対する不在の父、そこから逃げた父という分析を通しての関心です。
それと、宮本さんがそこまで意図してこう発言したかどうかは分りませんが、「父」には、浦沢直樹というマンガ家にとっての「父」=手塚治虫という含意もあるでしょう。


一方、ぼくはエプシロンがどう描かれるかに着目しています。
オリジナルに登場したエプシロンは、性別の判然としない(「彼」は「おじさん」と呼ばれていますが、そもそもロボットに性別はあるのか?)、それでいてエロティックな、父でもあり母でもあるようなキャラとして描かれていました。それは、手塚絵=記号的身体、ぼくの言葉でいうと「マンガのおばけ」が、性別や年齢を曖昧にしか表現しえないことを逆手にとったものといえます。現在の、狭義の「萌え絵」にもつながるセクシャルな表現です。





しかし、大友克洋以降の「リアリズム」を通過した浦沢の絵でそれを表現することはできるのかどうか。もちろん、キャラの配置を考えればエプシロンを女性型にすることは、むしろ自然な成り行きだといえる。しかし、だからこそ、手塚と浦沢の差異がはっきり見えるのではないかと考えています。オリジナルの手塚エプシロンは、見事なまでのファリック・マザーでした(額にはまさに突起=ファルスが屹立している!)。


宮本さんの関心にせよ、ぼくのそれにせよ、浦沢-手塚間に横たわる、いいかえれば『PLUTO』によって強引に目の前に引き寄せられた「マンガ表現史」に関わるものです。
ぼくが『PLUTO』を評価し、ひいては浦沢直樹を評価するのは、まさにこの一点、自ら「マンガ表現史」を引き受けようという営みによるのです。