この国で「リベラル」であること。

最近の風潮なのか、こちらがそう思わされることが多くなったのかはともかく、いわゆる「リベラル」「左翼」とされる人々のほうが狭量だったり、考え方が硬直していたり、敵・味方をはっきりさせたがるように見えることが多いのはなぜなんだろう。なんだかとても不寛容だな、と思うことが多いのだ。


ネットでの「ウヨ」「サヨ」だのの話題について考えるときには、まずここからはじめないといけないように思う。


フィギュア萌え族」の大谷昭宏もそうだったし、事例はほかにも事欠かない。
大谷氏は一般には「弱者の味方」であり、「リベラル」と見られていたと思うんですが、違うんですか。
あと攻撃的な嫌味とか、誰ソレは誰ソレとつきあってる/つながっているからダメ、とする態度もあるか。これはどういう政治的な態度を取るかとは別の特性かもしれないけれど、でもこの国でいう意味の「リベラル」な態度を貫こうというのであれば、それだって変だ。いずれにせよ、狭量にすぎるし、人と人がいかに関係性を紡いでいくかということがお留守になっている感じがする。


まあ、あえて具体的な事例は例示せずにおくけれど、身に憶えのあるひとはあるだろうし、あるいは「自分のこと」とは思わずとも、無意識的には気づいていて、伊藤は何をいいだすんだと、ぼくに対して攻撃的に出るひともいるかもしれない。
そんな行動こそ、そのまんま「語るに落ちる」というヤツだけれども。


「リベラル」ってのは「ひとの話をよくきき、自分の意見はきちんと相手に伝わるようにいう」という態度を取るもんじゃないんですか。


あと、「異議申し立て」「権利の主張」「体制や権力への懐疑」の重要さはたいへんよく承知しているんだが、これらと「ただの混ぜっ返し」「通らないと自分でも分っている主張への固執」「とにかく成功したもの、力を持ったものへの僻み・妬み・嫉み」とはどう区別すればいいんだろうか。
現状では、これらのひねくれた姿勢・すねた態度を排除する方法がないように思える。
それは、仕方がないことなんだろうか。
でも、そうだったとしたら「リベラル」の側は最初から負け戦をしていることになるし、それは自業自得でしかなくなってしまう。


誰かおしえてください。
ぼくは「リベラル」でありたいんです。その姿勢のうちへの「ひねくれた心」の侵入は、どうやったら食い止められるんですか。